Fiori di Luce 〜光の花束〜 ハートの欠片 「とりあえず、イチから説明して欲しい」  十六夜がベッドの下から引っ張りだしたクッションに座りながら、あたしは口を開く。知りたいことはたくさんあるけれど、ひとつひとつ聞きたい。 「世界の成り立ちは邪羅さんが教えてくれた。物質と力と思念で作られていて、互いに関係し合ってるって。戦いの空間が、思念と力だけで作られてるってことも聞いた」 「おー、さっすが。仕事が早いねぇ」  十六夜は、ベッドに腰をかけてあたしを見下ろす。ジュースをひと口含んで、あたしの出方を伺うように真っ直ぐ見てきた。  あたしも十六夜を真似てスポーツ飲料を飲む。泣き過ぎたせいか喉が渇いていて、いつもより優しい味だと思った。 「で? どこから話そうか」  背中を丸めて十六夜が問う。  どこからか聞くべきか。思考を巡らせたけれど、悩む必要がないほど辿り着く先はひとつだった。ハートより何よりも、知りたいこと。 「十六夜たちの正体から話して」  ベランダ、テーブル、あたし、と一直線になっていた体をベッドに向ける。目と鼻の先には十六夜の膝頭。彼はペットボトルの口を唇にあてたまま、しばらく考え込んでいた。  話すのを躊躇っているんだろうか。沈黙が訪れると不安に襲われたけれど、どうやら杞憂だったらしい。手のひらのキャップからあたしに視線を戻して言う。 「萱は、ユングっておっちゃんのこと知ってるか? カール・グスタフ・ユング」 「誰それ」 「学者だよ。知らないってことは、ユング心理学も知らない、よな」  目を点にして首をひねる。どこかで名前を聞いたような気もするけど、残念ながら一般高校生が学ぶ学問以外は触れた試しがない。  わからない、と素直に答えると十六夜はそっか、と短く返した。 「それじゃ……目の前で俺や魁が戦いはじめた時、どう思った?」  抽象的な質問。視線を泳がせ時間をかけてみたのに、質問の意図が掴めなくて困った。 「どうって言われても」 「単純な感想でいいんだ。目のあたりにした瞬間どんな風に感じたか、とか」  飲み物でもう一度喉を潤してから、そう遠くない記憶を呼び寄せる。単純な感想となると……。 「怖かった、かな。何が起きてるのか理解できなくて、凄く怖かった」  怠惰の瞳からも魁の剣からも、できれば逃げたかった。十六夜と邪羅さんがいてくれたからどうにかやり過ごせたものの、怖さだけはこの身にべっとりと染みついている。 「そうだよな。ごめんな、怖い思いさせて」  過去の情景を思い浮かべていたら、十六夜は肩を落とし出した。心底落ち込んでいるのが見て取れる表情なので、思わず手を振ってフォローする。 「いやいや、十六夜のせいじゃないでしょ」 「ううーん。まぁ、これからも怖い場面に出くわすだろうけど、俺がんばるからさ」 「あ……ありがとう」 「で、本題。その『怖い』って気持ちは世界の成り立ちからすると思念の領域に属するな?」 「え? そう……だね」  確か、生物の感情は思念の領域に関わっていると説明を受けたはず。こめかみに人差し指を押しつけて、なんとか思い出した。 「感情ってのは、一見すると脳だけで完結してるけど、その大元は思念の領域にある。人間の様々な気持ちは、目に見えない思念の領域で生まれて、そこから各精神に引き出されている。要するに、感情の根っこはみんな繋がっているんだ」 「う、うん」 「もちろん他人と感情が交わることはないけど、双子なんかは結びつきが強いから遠くにいる片割れの情報を第六感で感じ取るってこともある」 「どこかで聞いたことあるよ」  世界の不思議を追いかけるテレビ番組だったような。 「さっきユングについて聞いたのは、それ。ユング心理学でも人類共通の意識ってのが提唱されているから説明しやすかったんだけど……まぁ、いいや」  十六夜は、俯き状態で話すのがつらくなったのか、テーブルを挟んだ真向かいに座った。 「それで、同じタイミングで『怖い』って思う人がいれば、その分『怖い』って感情が思念の領域に同時に生まれることになる」  ジュースの残りを一気に飲んでから話を続ける。 「例えば、世界規模の戦争。そういう事象があれば、どうなると思う?」 「怖いって感情ばかりが思念の領域に生まれる、かな」 「そそ、大正解。思念の領域もこの世界も、恐怖で満ちるわけだ」  教科書でしか知らない世界が、現実に起こったとなると実際どうなるんだろう。あまり考えたくはない。  十六夜は空になったペットボトルをテーブルに置いて、そっと息をこぼした。 「そんなことになったら、世界は真っ逆さまだ。互いを壊して終わり。地球の終了。だけど、終わらせるわけにはいかない、よな?」  言い終えると、再び息をこぼした。十六夜は次のセリフを吟味するように口を閉じる。緊張しているのか表情が硬く、視線が少しばかり伏せられた。漂う空気が明らかに変わり、こちらも思わず身構える。  きっと十六夜の正体を話すつもりだ。昔のあたしじゃ、受け止めきれなかった事実。  一言一句漏らさないよう、背筋を伸ばして次の言葉を待った。やや不安げにあたしを見た十六夜は、覚悟を決めたのかごくりと唾を飲み込む。  そして、意を決して口にした内容は、想像の遥か上を行くものだった。 「世界の破滅を防ぐため――俺たちみたいなのが作られた。生物の感情を管理し、バランスを維持する者だ。理解しにくいかもしれないけど、俺や邪羅は、思念の領域で感情を管理している」  十六夜は語る。  物質なら作り出される物があれば壊れる物もあり、力なら増加する力があれば減少する力もある。世界に存在するものは全て、安定を保つように作られているらしい。  感情にも同じルールがあり、希望・愛好・調和といったプラス思考の感情と、絶望・嫌悪・復讐といったマイナス思考の感情が、体内で同時に存在することで人というのは平穏を維持できるそうだ。  言われてみれば、不安に押しつぶされそうな時は体が気持ちに反応して呼吸が荒くなったりする。それは平穏じゃない証拠。逆に、イベント前夜で興奮している時は、夜も眠れないなんてこともある。これも平穏じゃない証拠だろう。  世界は絶妙なバランスがあるから、永い時間をかけて存続して発展している。十六夜たちは、世界のバランスが極端に崩れないように管理しているそうだ。 「正の感情のうち、俺は叡智……つまり『学びたい』という感情を担当している」  十六夜は声のトーンを落として言った。丁寧な語り口で、あたしが理解できるように気を遣ってくれているのがひしひしと伝わる。胸に浸透する言葉を噛み締めながら、あたしは失礼なことを考えていた。  この十六夜が『学びたい』という感情の長。数学のテストであたしと似たような点数を取るのに、長。  釈然とせずに首を傾げる。どちらかと言えば頭の良い邪羅さんの方が適任だと思う。  あたしの様子を感じ取ったらしい長は、同じ方向に首を曲げてきた。 「俺が叡智じゃ不満?」  「不満と言うか……似合わないと言うか」  正直に話すと、十六夜は明るく笑い飛ばした。 「はっきり言うねぇ。情けないことに俺自身もわかってるから、その気持ちは認める。ま、担当者の性格が担当内容と合ってないこともあるってことで了承してください。今んとこ不都合も起きてないしね」  聞くと、怠惰は十六夜の真反対に位置する負の感情を担当しているらしい。名前の通り『怠けたい』という気持ちを束ねているそうだ。感情の源は同じで、正に傾けば『学びたい・知りたい』というプラス思考になり、負に傾けば『怠けたい・知りたくない』というマイナス思考になる。十六夜と怠惰のふたりで感情を支えていると言っても過言じゃない、と十六夜は言う。 「だから、どんだけ嫌いでも憎くても、相手を倒すことは禁じられている」 「それなのに、怠惰は十六夜に敵対心を持ってるの?」 「らしいな」  ガラステーブルの下に視線を落とす。透き通った向こうには、あぐらをかいた十六夜の膝と、何かごちゃごちゃと入っているコンビニ袋。そのふたつをぼんやりと眺めていると、タブーの話が気になってきた。 「じゃあさ……もしも怠惰が倒れちゃったらどうなるの? 十六夜ひとりで支えるってこと?」 「前例はないけど、恐らくそうなるだろうな。あいつが倒れたら俺自身どうなるかわからん」  十六夜はコンビニ袋から新しいペットボトルを取り出す。なんと麦茶だった。個人的に期待はずれだったけれど、十六夜だって甘くないものを飲む権利があるのだし、気にせず続きを促した。 「それで、邪羅さんは何を受け持ってるの?」 「あいつは……『秩序』だ。世界の理《ことわり》――つまり、ルールや統率・統一といった感情の担当をしている」 「おぉ、それっぽい」  適正を通り越して最適な人選。誰も異論なんてないと思う。頭に現れた灰色の制服が、ポンと浮かんでは消えていった。 「だからか、数学とか物理に詳しいのは」  世界のルールに通じてるからこそ、あたしみたいな底辺レベル相手にも的確な指導ができるんだ。 「例えるなら、あいつは超理系。俺は超文系。学びたいって気持ちは記憶することと直結するからな。だから俺は、社会とか国語が得意」 「もしかして……十六夜が記憶を操作できるのって」  自分の能力を忘れていたらしい。十六夜はぽん、と手を叩いて大げさに頷いた。 「そうそう。言い換えれば、俺は記憶を管理しているってことだからな。人の記憶を変えられるんだ」  ――ここにきて、ありとあらゆる出来事がすっきりと整理されていった。世界の形に十六夜の正体、十六夜の力。パズルのピースが次々と埋まっていく感触を覚え、少しくだらないことを聞きたくなった。  ガラステーブルに身を乗り出して、真正面の顔を覗き込む。麦茶を飲もうとした手を止め、十六夜はぱちぱちと瞬いた。 「ねぇねぇ。ここに来る前、十六夜は思念の領域にいたんだよね」 「うん」 「ってことは、その体ってどうなってるの?」  十六夜の話と邪羅さんの話を整合すると、物と感情は独立しているから十六夜のいた場所に物は存在しないはず。他人の体を間借りする、なんて物語を聞いたこともあるけれど十六夜もその一種なんだろうか。  過去に読んだファンタジー漫画を思い返していたら、十六夜はペットボトルを机に置いて両手を突き出してきた。目と鼻の先で、手を閉じたり開いたりしている。 「アバターってわかる?」 「あれかな? 顔とか髪型を自由に決められるゲームサイトのやつ」 「それそれ。この体はアバターだと思ってくれればいい。俺たちは幽霊みたいなもんだから、体がないわけ。だから人として動ける体を作ったんだ」  邪羅さんとハートの中に入った時、似たような話をしていた。魂だけだから物の制約から外れる、だから瞬間移動ができるんだ、と。あの空間で彼らが自由に動けるのは、彼ら本体が物に依存していないからだと思う。人間は精神と器が切っても切り離せないけれど、彼らは精神と体が分かれきっているのだろう。 「アバターってことは、自分の好きな姿を作れるの?」 「うん。顔から体まで俺の好みに仕上げたよ。いくら仕事でここに来ているとは言え、それぐらい遊んだって良いだろ」  十六夜は自分の両頬を人差し指で突く。無意味にニカーッと笑ってきた。  言われてみれば、十六夜も邪羅さんも怠惰も、整った顔をしている。何よりも魁。あの人の顔は人間離れしていて気味悪いくらいの美形だ。 「あたしもそんな風に自分好みにしてみたいな」  ファッション雑誌の表紙を飾るような美白美女とか、男の人を悩殺するグラビアアイドルにもなれるってことだ。それだけじゃなく男の子にだってなれるのか。  憧れている人の顔が自分のものになる様子を想像する。きっと周りの反応も違うのだろう。頬を緩ませて興奮していると、十六夜は呆れたような視線を投げてきた。 「俺事情でしかないけど、結構不便だぞ。何せ体を持つのがはじめてだからな。筋肉や関節を動かすってことに慣れるまでむちゃくちゃ苦労した」  心底疲れたように言う様子から、生まれたてのヤギを思い出す。慣れていないってことは、あんな状態になるんだと思う。必死に立ち上がろうとする十六夜を考えると笑いが込み上げてくる。まるで他人事だけど、自分たちには想像さえ追いつかないくらい大変なんだってことはわかる。  そういえば、オリジナルの体を作ったってことは、誰かから生まれたんじゃないってことだ。ということは……。 「十六夜って、家族いないの?」 「いないよ? 俺たちには家族なんて概念ないし、わざわざ無関係な人の記憶を変えて家族になる必要もないし」 「……そっか」  改めて部屋を見渡す。十六夜らしさが出ているのは、ベランダの近くで平積みされている教科書類と投げ出されたかばんだけ。他はベッドとガラステーブルだから、十六夜がここで生活している様子を浮かべにくい。  この部屋で、家族もいなくてひとり、か。 「寂しくない?」 「へ?」 「がらんとした部屋にひとりだけって、寂しくない?」  冷たいテーブルに指を滑らせ、十六夜の丸まった背中を想像する。  恐らく、このテーブルで夕飯も宿題も済ませているんだろう。テレビさえないのだから、無音状態で過ごしているはず。あたしなら、簡単に音を上げそう。  自分の弱さと十六夜の強さを比べていると、彼の透き通った瞳が急に陰りを見せた。 「予定だと、すぐ思念の領域に戻るつもりだったから……そんなに物は揃えてないよ」  小さな呟きは、せみの鳴き声に押された。少し重くなった空気が、あたしの視線を床へと落とす。  十六夜は何を言ったのかと、一瞬だけ自問する。言葉の意味はとても単純。なのに答えを探してしまった。それは聞き間違いを願う心。 「そっか……そうだよね! 仕事だもんね、終わったら帰らなきゃいけないよね」  十六夜の瞳に明るく映るように、笑った。これ以上彼の足枷なるのはごめんだった。  全てが終われば本来の場所に帰る。当然じゃないか。  胸にできたしこりを、スポーツ飲料ごと飲み込む。優しいと感じた香りは消し飛んだ気がした。 「それより体調はどうだ? 気分悪くないか?」  十六夜は変になった空気を流すように、柔らかい笑みを浮かべる。  確か、あたしは気絶したからここに連れてきてもらった。十六夜が流そうとした空気をさらに一掃するため、大げさにガッツポーズをとる。 「大丈夫だよ。全然平気、ありがとうね」 「良かった。まさか気絶するとは思わなかったからさ」 「うーん、邪羅さんとハートの中に入った時とは違う感覚だったよ」 「どんな?」  僅かに目を見開いて、前のめりになる十六夜。 「ハートの中は、自分が沈む感じ。魁の中はこっちの世界が切り取られた感じ」  ふたつの感覚を上手に表現することができない。だけど、ハートと魁では感覚が大きく違った。何より、ハートの中に入ったときは公園が広がったのに、魁の中は違っていた。  あたしは、魁の中の概要を説明した。白と黒しかなかったこと。魁が黒い海の中に埋まっていたこと。覚えている限りの話を伝えると、十六夜はどこか遠くを眺めた。 「今更ながら気づいたことがあるんだけど」  話を区切って黙る。  壁にかけられた時計の針が、時間を刻んだ。ベランダから舞い込む風は、十六夜が続きを話し出すまで室内を十分に巡る。 「はじめて魁に襲われた時、知らないやつだとしか思えなかった。でも、萱が同じ空間にいることを考えれば、魁が何者かなんて簡単だった」  十六夜は心底悔しそうに顔を歪める。どういうことかと問うと、十六夜は指をぴっと立てた。 「俺たちは、同じレベルかそれ以下だと居場所がわかるようになっているんだ。俺は怠惰や邪羅の居場所がわかるし、逆もそう。だけど、魁はどこにいるのか見つけられない。つまり、必然的に俺や邪羅より魁は上だって言える」 「う、うん」 「さらに、相手の居場所がわからないとあの空間に連れて来られないんだ。だからあの時、萱が同じ空間にいたってことは……」  深呼吸して、言う。 「あの空間を作ったのは魁。そして、魁が萱と同じ『ハート』だから萱を連れて来られた」  腕を組み、ただし、とつけたす。 「戦っているいつもの空間と、さっき萱が話してくれた空間は、質が全然異なる。場所も違えば、時間が止まる条件も違う。それに、俺は世界がどんな形をしているか知っている。俺が知らない世界ってのは、たったひとつを除いて、まずない」 「たったひとつって?」 「ハートの世界」  神妙に、断言した。 「……ハートの世界」  十六夜と同じセリフを口にしたのは、理解できる範疇を超えていたから。あたしには、どれが正解でどれが不正解なんてわからなかった。  謎を突き止めれば、たちまち新たな謎が生まれる。このままだと埒があかない。  もう、全ての謎を解く鍵は、これに集約されると思った。覚悟を決めて、茶色い目を凝視する。 「十六夜。『ハート』って――何」  たくさんのことを話しながらも、お互い触れてこなかったハート。あたしにとっては、体に眠る得体の知れないもの、という感覚だから詳しいことはわからない。十六夜なら知っていて当然だと思ったけれど、問いかけた瞬間、彼は体を強ばらせた。  麦茶で喉を湿らせた十六夜は、さらに神妙に話を切り出す。 「ハートっていうのは、感情を管理する者の最頂点に立つものを指すと言われていた。イメージとしては俺たちの王様、核になる部分なんだ。だから心臓の意味を取って『ハート』と呼ばれている」  十六夜たちが作られる前からハートは行方不明だったらしい。ところが、最近になって居場所がわかった、と……それがあたし。行方不明になった理由も居場所が判明した理由もわかっていないそうだ。  魁とあたしについて問うと、あたしは正にまつわる感情のハートで、魁は負にまつわる感情のハートと考えるのが妥当だと、十六夜は言っていた。  確かに、魁と顔を会わせた二回目の戦いの時、ありとあらゆる感情が流れてきたのをはっきりと記憶している。  感心していると、十六夜はテーブルの上に放置されたキャップを握り、苛立たしそうにカンカンとテーブルを叩いた。 「だけどさ、なんか間違えている気がする」 「へ?」 「ハートと俺たちのルールが違いすぎるんだ」  十六夜はあたしの左腕を指差す。例の傷の箇所だ。 「萱の腕が傷ついたこと、ずっと気になっていた。思念と力であの世界は成り立っているから、肉体が直接傷つけられることはありえない」 「だってあたしは」  怪我したじゃないの。そう言おうとしたけれど、十六夜はかぶせるように続きを話す。 「ハートが俺たちの王様ってだけなら、肉体は安全なはずだ」  二回目のカンカンが響く。 「だけど、ハートが目覚めていくほど、俺たちとの差が浮き彫りになって謎ばっかり増えて行く。どう考えたって意味をはき違えているとしか思えん」  そう言って、キャップを指で弾く。音を立ててテーブルから落ち、あたしのわきをすり抜ける。背後の壁にぶつかって、ようやく止まった。  あたしが立ち上がって拾いに行くと、悪い悪いという声が後ろから聞こえた。悪態をつきつつ十六夜に手渡そうとすると、直前で手が止まった。十六夜の背中で茜色に染まるレースのカーテンが、ふわりと揺れる。薄く透ける向こうには、街に広がる夕焼けが見えた。 「もうこんな時間なんだ」  話に夢中で全然気づかなかった。 「遅くなってきたみたいだし、そろそろ帰るね」  キャップを渡して伝えると、十六夜は立ち上がってズボンのポケットに手を突っ込んだ。 「歩けるか? 送ったほうがいい?」 「大丈夫。公園までの道を教えてくれさえすればいいよ」  十六夜の気遣いを制して、ベッド足に添えられた鞄を握り玄関へ向かう。 「公園はマンション出た前の道を右手にまっすぐ歩いたら着くから。何かあったら連絡して」  背中から丁寧な説明が返ってきた。玄関まで見送ってくれるらしい。  簡単に礼を伝え、丁寧に揃えられたあたしのサンダルを座りながら履いていると、 「あとさ、ハートに関して思い出すことがあっても連絡して。些細なことでいいからさ」  と、頭の上から伝えてきた。 「わかった。思い出したら連絡する」  立ち上がりざまに振り返り、十六夜をじっと見上げる。  頭ひとつ分違う身長。今更感心するようなことじゃないとは思うけど、背が高いな、と改めて感じた。   だけど、これも成長した結果じゃなくて、十六夜が好みで選んだ背の高さ。そんなことをしみじみと考え込んでいたら、十六夜は同じ高さに視線を合わせてきた。 「最後に、もうひとつだけ確認」 「何?」  言い残したことがあるのかと記憶を辿ってみるけれど、特に何も思い当たらない。首を傾げて続きを待っていると、十六夜は吐息が触れる距離まで顔を近づけてきた。  そして、 「俺たち、両思いだよな?」  まるで今からイタズラでもしかけるように、にやりと笑う。 「…………」  視界に入る、目と鼻と……唇。  そういえばあたし、十六夜とキスしちゃったんだよね。  自覚すると、頭の端に消え去っていた光景が鮮明に蘇ってきた。熱も感触も思い起こされて、自分の顔が見えないのに、顔が紅潮するのがわかった。  りょ、両思いって!?  今日一日であった様々な出来事が、頭の中であれもこれもそれも何もかもどんどん混ざっていって。  脳みそがすっかりオーバーヒートしたあたしは、否定も肯定もせず。  その場に響いた音は、パン! という乾いたビンタ音……でした。  十六夜の視線を避けるように逃げたあたしは、三連休の残りをぎこちなく過ごした。考えたところでどうしようもないとわかってはいても、頭は取り憑かれたように考え続ける。当然だけど睡眠は満足に得られず、白濁した頭で終業式である今日を迎えた。  開けられた教室の後方ドア。教室内の人から自分の姿が見えないよう、細心の注意をはらって中を伺った。室内の隅々まで目を走らせ、茶髪のロン毛が見当たらないことを確認する。  十六夜の場合は、あの声も目印のひとつ。誰よりも騒がしいので、近くでも遠くでもすぐにわかる。  幸いなことに、姿も声もあたしのアンテナには引っかからなかった。廊下をばたばたと歩く同級生の白い目をよそに、あたしはおもむろに足を踏み入れた。そして、自分の席には目もくれず、漫画を読みふけっている黒髪へ足早に歩み寄る。 「うひゃあ!」  背中から抱きつくと、キャラに合わない可愛い声を出して撫子は驚く。鼻に触れた髪が鼻孔をくすぐった。 「撫子さん、お願いがあります」  お願いに不釣り合いな暗い声で伝えると、撫子は手にした漫画を机に落としてジタバタと暴れた。 「やめんか萱! 耳! くすぐったい! 離れろー!」  あたしの手首を叩くも、力が抜けきっているのか弱々しい抵抗しかしてこない。  椅子に座っている彼女に抱きついたから、自分の口が耳元にきてしまった。もちろん、わざとじゃない。というか、初耳。 「耳……弱かったんだ?」  口をさらに近づけて囁く。腕の中でもがく彼女の抗い方は、小さな子供のよう。 「わかったら話すな! 離れろー!」  面白かったから止めたくなかったけど、このまま続行したら後々恐ろしい目にあいそうなので渋々離れた。  椅子に座ったまま、肩で大きく息をする撫子。その背中をつついて、あたしは繰り返し言う。 「お願い聞いてほしいな」  本来なら、謝ったり誤摩化したりしてフォローしたほうがいいんだろうけど、今は一分一秒を争う事態。こうしている間にも、周囲では挨拶を交わす声が増えている。  だけど、フォローしなかったのが運の尽きだったらしい。撫子は椅子の上に膝で立ち、錆びた音がしそうなほど機械的な動きでこっちを向いた。  深く黒い瞳と交錯する。完全に目が座っていた。 「お願いよりも先に言うことあるでしょうが!」  言い切らないうちに、あたしの頭を乱暴に鷲掴みにする。並外れた速さで大きく揺さぶられ、視界は四方八方に飛び散った。首のつけ根が痺れる感覚を、はじめて味わう。 「ちょっとやめて! ごめんってば!」  自分の行いを悔いる。どれだけ楽しくても、この人に悪さをしたら倍以上で返されてしまう。 「最初から素直に謝れば良いのに。で? お願いって何よ」  あたしは首を丁寧にさすって、満足そうな撫子を見下ろした。お星様が飛び交う頭を落ち着かせるため深呼吸ひとつしてから、彼女の両肩に手を置いて本題を伝える。 「今日も一日、八重樫萱になりませんか?」 「無理。終業式だし」  あっさり即答。 「そこをなんとか!」 「理由を言え。理由を」  肩から手を退かせた撫子は、怪訝そうに眉をひそめる。膝で立っていた体勢がつらくなったのか、椅子から下りて腕を組んだ。 「理由って言われても……」  十六夜の席に目を向けた。まわりの席はほぼ埋まっているけれど、そこの主はまだ不在。でも十分もしないうちに来る。来てしまう。  撫子はあたしの視線を確認しないまま、長い息を吐いた。 「誰が関わってるかなんてどーでもいいわよ。わかりきってるから」 「だったら変わってよ」 「やーよ」  取り合ってられないと言わんばかりに、大きく手を振る。だけど、こちらも手段を選んでいる時間はゼロ。なぜなら、十六夜の席はあたしの隣だからだ。来てからじゃ遅い。 「後で話す、ってことでまるっと納得してくれませんかね」  手を合わせて懇願すると、撫子は複雑な表情で髪をかきあげた。視線が、あたしの目からやや上方向に反れている。  ――まさか。  同じ姿勢を保ったまま、一瞬にして硬直した。背中に鳥肌が立つ。何より人の気配がする。  そして、撫子はあたしの直感を肯定するように指差した。方向は、あたしの頭の数センチ上。 「そいつ次第かな」  ……ここで生まれた選択肢は四つ。振り返る、振り返らない、忘れたふり、見えないふり。クイズ番組の早押し問題のように、選択肢がパネルになって頭を通り抜ける。秒単位で加速する脈を認識しながら選び損ねていると、大きな手に右肩をポンと叩かれた。 「よー。おはよ萱」  後頭部から聞こえる声色は、あたしの予想とぴったり一致した。朝らしく間延びした低音で、あくびさえ聞こえる。  それに対するあたしの反応は……凄まじいスピードだったんじゃないだろうか。振り返り、誰か確認し、撫子の背に隠れて指を突きつける。 「あんたなんて知らない! 忘れた!」  よりによって変な選択肢を選んだあたり、相当混乱していると思う。自分でも自覚はある。 「なんだよそれ……撫子ねーさんも、おはよ」  あたしの威嚇攻撃をさらりとかわし、十六夜は眠そうな目を擦りながら撫子に挨拶をする。撫子もうぃーすと敬礼っぽく手をあてがって応答していた。 「おはよう蘇芳。ご機嫌治ったみたいだね」  かばんを足元に置いた十六夜。背筋を伸ばし、撫子に倣って敬礼した。 「ご迷惑をおかけしました。蘇芳十六夜、復活したであります!」 「無事に復活して、何でこの子がこんなんになってるのよ」 「それがですね、話せばなっがーいひとコマがあるんですよ。な? 萱?」  十六夜はひょいっと体を傾け、撫子の脇からあたしに向かって笑いかける。一昨日と変わらないのに、その髪色さえ明るさが増したような錯覚を起こす。  戻ってくれたのは、自分だって嬉しい。嬉しいけれど。 「寄るな! 近づくな!」  盾にしている撫子の背中を押して、一歩二歩と後ずさる。見える距離、手の届く距離と、近づけば近づくほど息苦しい。嬉しいのに胸が焼かれていく。それに戸惑う。  なくなるのは余裕。自分がどんな顔をしているのか、どんな行動を取っているのかが見当つかない。  あたし、今までどうやって笑いかけていたんだろう。 「ストーカーか何かかよ……俺」  十六夜が一歩踏み込めば、あたしは一歩後退する。縮まらない距離に視線を絡めると、十六夜は冷静にツッコミを入れてきた。そんなあたしたちを見て、撫子は唐突に噴き出す。 「どーせスケベ心丸出しで何かやったんでしょ」  真横に留まる十六夜の背中を景気良く叩き、ケラケラと笑った。十六夜は抵抗せずに目を細める。 「酷いなぁ。前にも言ったけど、俺純情少年だってば」 「そこ強調するんだ。純情を装いつつ何かしたってこと?」 「聞きたい? ねぇ、聞きたい?」 「やめぃ!」  盛り上がる会話に異議を唱えてみるものの、空回りするうわずった声は、はしゃぐふたりにかき消された。目を背けて、クラスメートの塊ができている教室の入り口を凝視する。もういっそ、あそこから逃げたい。  魅惑的な陽の光を眺めていると、十六夜は雑談の続きをはじめるような口調であたしに話しかけてきた。 「萱さー。課題やったか?」 「課題?」  身に覚えがない。むしろ終業式だから、課題が出るとすれば今日だ。  下唇に指をあてて記憶を探っていると、十六夜は頬に手を添えて艶っぽく吐息を漏らした。 「あんまり連絡くれないと、アタシ浮気しちゃうんだから……」  声色を変えて、さめざめと泣くふりをする。大げさな演技だけど、泣くという行為が一昨日の姿と綺麗に被さる。そこまで思い出すと、流れるように玄関先でのひと言が蘇ってきた。  ハートについて連絡くれって言われていたんだ! 「忘れてた」 「やっぱり。そんな予感してたよ」  大事なことなのに、欠片さえ頭に残っていなかった。 「課題って?」  撫子は、あたしに向かって不思議そうに問いかける。忘れていたことに衝撃を受けていたあたしは、即座に答えることができなかった。 「俺たちだけに与えられた課題さ」  十六夜が代わりに説明すると、撫子は、ふーんと素っ気ない返事を戻していた。たぶん、言葉通りの意味として捉えたんだと思う。  課題って言っても、ハート関連は撫子に手伝ってもらえるような話じゃない。何より、巻き込む気なんて一切ない。それだけは絶対に避けたい。  しっかりしろ、あたし。  寝ぼけた頭を起こすため両頬を軽く叩くと、十六夜はあたしに向き直って話を続けた。 「だから、学校終わったら時間作って欲しいんだけど」  心なしか、十六夜は遠慮がちに伝える。何を気にしているのか不思議に思ったまま承諾しようとしたら、撫子があたしの前に踊り出た。 「ダメよ。今日はあたしの先約があるの」  撫子はあたしのひじを引っ張り、上履きを軽く蹴ってきた。  今日は約束なんてしていない。だから、口裏を合わせろと言いたいんだろう。現に、振り返った彼女の顔は、これでもかって言うくらいニヤついていた。嫌な予感はするものの、否定する勇気までは持ち合わせていなかった。 「邪魔しないでよね」  あたしの背後に回った撫子は、背中から抱きついてきた。何となくだけど、十六夜を挑発するためにやっている気がする。  そして、見事に乗せられたのか、十六夜は「ま、負けないもん!」と叫びながら逃げるように自分の席に去っていった。 「くっくっく」  うわぁ。耳元でどす黒い笑い方してるよ。この人。 「今日の放課後、ゆっくり聞かせてもらうからね」  笑い声のボリュームを落とすと、撫子はおもむろに腕をほどいた。瞳を覗き込むと、さらに顔をニヤつかせる。何だか悔しい。 「話すこと……ないよ」  否定したところで無駄だってわかっている。あたしだって、逆の立場なら嘘を見抜ける。そんな薄っぺらい抵抗。  案の定、撫子は「んなわけないでしょ」と言ってあたしから離れると、 「言っていい? ねぇ、言っていい?」  そう、十六夜の声色を真似て言い出す。 「もう、誰かと同じようなセリフ言わないでよ」 「えー? 誰と同じセリフ?」  嬉々としてからかってくる。彼女の暴挙を押さえようと腕を振り上げたけれど、天に向いたところで手を止めた。  背中がむなしい。胸の中心におもりがぶらさがっているようで、体がだるい。夏休み前特有の、ワントーン高い周りの声をうとましく感じる。  肺の中の空気を全部絞り出すような深い溜め息を吐いたあと、立ち去った十六夜に目を向けた。すでに男子に囲まれていて、彼を中心に騒がしい輪ができあがっている。 「……蘇芳ってさ、ほんとムードメーカーだよね。正直言ってここ数週間、クラスの雰囲気も重かったわよ」  しみじみとした撫子の呟きに、あたしは無言を返す。  刺される前の十六夜と刺されたあとの十六夜。ジキルとハイドの物語を体現していた時、あたしだけじゃなくクラスメートも苦労していたのだろう。十六夜の帰還を喜ぶ人は多く、教室中があっという間に華やいでいく。  良かったね、と伝えようともせずにぼんやりと眺めていたら、茶色い瞳といきなり目が合った。視線を反らそうかと思った瞬間、先に気づいた撫子が再度あたしに抱きついてきた。  ヤツはと言えば、わざと挑発に乗っているのか、大げさにプイとそっぽを向いて、 「お前の体が代理じゃぁぁぁぁ!」  と、同じクラスの男の子をぎゅうぎゅうと抱き締めていた。 「やめろ蘇芳! ちょっ! どこ触ってるんだ! やめろぉぉ!」  盛り上がる男子達の中心から悲痛な叫びが響いてきたのを聞いて、撫子はまた黒い笑いをこぼす。 「あー……マジでウケる」  笑えませんって。  コーヒーはあたしにとって鎮静剤のようなもので、混乱しやすい精神を落ち着かせてくれるものだった。どんな時でも口に含むだけで静かになれたのに、今回ばかりは鉄則が覆される。  放課後のファーストフード店。学生と家族連れが溢れかえる店内で、あたしはずっと俯いていた。アイスコーヒーを飲んではトレイに戻し、数秒経たないうちに再び口にする。それを繰り返し繰り返し行っていた。  何かしていないと落ち着かない。だけど、何か真剣に考えるような精神でもない。考えないようにしても見ないようにしても、ひとつの事柄が脳髄に張りついている。  自分がしたこと。十六夜にされたこと。  ――あたしの気持ち。  考えては行き詰まり、答えを求めては踏みとどまる。魁が自分と同じハートだという事実が霞んでしまうほど、どうしようもない状態に陥っていた。  もう何度ついたかわからない溜め息を吐くと、撫子は大きな口でポテトパイにかぶりついた。 「で? 何があったのよ」  当たり障りのない話題にさえ生返事しかしなかったのに、撫子は責めなかった。こっちから話すのを待ってくれたんだろうけど、自分から切り出す気力なんて、指先の面積すら残っていなかった。 「話さなきゃ……だめ、かな」  往生際の悪いあたしのセリフを聞いて、撫子はぎゅっと眉をひそめる。 「絶対自覚してないと思うけど、今日一日『女の子』の顔してたわよ」 「え?」 「あいつも普通になったんだから、丸く収まればいいのに。どうして、萱だけ暗い表情に戻らなきゃいけないの?」  遠慮なく、ぶつぶつと文句を言う。食べる手は休めず、ひとつめのパイをぺろりとたいらげた。 「無理に話せとは言わないけど、このままだと納得いかないわね」  撫子の言葉に無言を決めつけると、撫子は空になった包み紙を畳んでトレイに投げ捨てた。 「あいつが普通に戻って嬉しいでしょ」 「それは、もちろん」 「じゃあ何が嬉しくないの」  撫子はわかりきった回答を追い立てるように、本題を被せてきた。  目線の痛さに目を背けると、会話が途切れて周りの耳障りな笑い声が充満する。沈黙に耐えかねて、いつも注文しているチキンナゲットに手を伸ばした。  大好きな味。なのに今日は気持ちが悪い。 「何が嫌なの?」  強情なあたしを見かねてか、撫子は声を和らげ、だけど同じ内容を繰り返し尋ねる。  何が、嫌。 「嫌なこと、か……」  呟き、思い浮かべる。  本当に目を背けたいのは、撫子の目じゃなくて、この現実。 「あたし、認めたくないんだと思う」   多過ぎる氷をストローで刺しながら、今の自分に近い言葉を選んだ。それでも口から出した途端、違うと思った。  現実はそこにあるもの。認めるとか認めないとか、そういう話じゃない。あたしが何をどう感じたって、変えられない事実だ。  だからこそ、重い。振り払うなんて器用なことができないから、潰される。  不穏な空気を感じたのか、撫子は何も言わない。認めるなんてセリフ、意味がわからないはずなのに、深く追及してこなかった。  トレイには、新しいパイが残っている。食べないと冷たくなるのに撫子は手を出さず、視線を外したままのあたしを凝視した。真っ先に逃げを選ぶあたしと対照的な、よどみない視線。  目を合わせるまで見続けそうな力強さに負け、視線を黒い瞳に合わせる。撫子は真顔。この機を待っていたかのように口を開き、そして。 「蘇芳のこと、好き?」  ――あたしじゃ口に出せない想いをまっすぐ尋ねてきた。  テーブルの携帯に視線を落とすと、ハート型のストラップと目が合う。  はじめて出会った時、その本性を暴くため彼の遊びにつき合った。力一杯遊んで散財して、手元に残ったのはストラップ。透き通る瞳が、強く印象に残った。  彼が彼自身を見失っている時は、世界が色あせていくようだった。友達でないと言われれば身が引き裂かれ、呼吸さえ辛い日々を過ごした。  忘れもしない、戻ってきてくれた瞬間の喜び。誰かに自分を呼ばれても何とも思わなかったのに、彼の声に乗るだけで自分の名前を愛おしく感じた。  目の動きも表情も、この体が勝手に覚える。自分が信じてきた自分なんて、彼の前では姿を消した。  たったひとりに、ここまで狂わされてしまう。頭だけでも心だけでもない、体中を揺さぶる感情の源。全てを変えた、笑顔の似合うひと。 「……十六夜」  撫子は、あたしの瞳に溜まる涙をずっと見つめていた。ひと雫こぼれ落ちたところで、あたしは小さく小さく、こくんと頷いた。  自分の名前が特別になると同時に、相手の名前も尊くなった。喉を通すのでさえ照れくさい。でも、気がつけば口にしている。そんな……相手を乞う気持ち。  撫子の飲むジュースを見るだけで、十六夜の顔が鮮明に浮かんでくる。そこまで重傷な状態になってしまった。十六夜の居場所をあたしの中に作ると決心したのに、実は自分の居場所を彼に求めていた。  自覚していくほど、涙が流れる。周りの視線を気にする余裕さえ残っていなかった。  事実が辛い。自分の気持ちが――重い。 「こんなことになるってわかってたら……好きにならなかったのに」  引き返せる時点で止められたかもしれないのに。十六夜を好きになる前の自分にはもう、戻れない。戻りようがない。  秘めておくには重過ぎた気持ちが溢れる。撫子は心配そうに身を乗り出した。 「こんなことって、何?」  温かな声に、開きかけた蓋がみるみる緩んでいく。中に収まっていたのは、悲鳴を上げた願う心。あたしの小さな器じゃ狭過ぎて体中が軋む。あまりに痛くて、とうとう一番辛い真実がぽろりとこぼれた。 「十六夜がいなくなる。離れていっちゃう」 「え?」  スカートにできていく染みに視線を落とした。拭うことも忘れて、ただ泣いた。  あの時以来触れなかった話。言ってしまうと望まない未来を肯定するようで、どうしても言えなかった。  十六夜とハートを知るほど、十六夜との距離が遠のいていく。全てを理解して、ハートを分離させることに成功したら、その先は?  ……考えたくない。 「あたし……嫌だよ。十六夜の近くにいたいよ」  何もかも終わって、ありがとうのひと言で片づけられるような気持ちだったら、もっと楽だった。分別をわきまえられる大人だったら、こんなに悩まなかったのに。  身勝手な言い訳。誰かに責任をなすりつける負の感情がふつふつと湧き出る。後先考えずに声に出してしまうと瞬く間に惨めになる、そんな激情。やせ細った理性が、口から流れるのをせき止めてくれた。  こんな言葉、言いたくない。  必死で唇を噛み締めて堪えていると、 「それ本当?」  ポケットティッシュが、スカートと目の間に滑り込んできた。綺麗な爪が、早くティッシュを取れと急かす。おもむろに手に取って撫子を見ると、彼女は申し訳なさそうに首を傾げた。 「今日はほんと、色んな顔するわね。今は『助けて』って言ってるように見える」  拭っても止まることを知らない涙。返事ができないまま拭い続けていると、鼻先を優しくつつかれた。 「その様子なら、蘇芳がどこかに行くのも本当みたいね」  周りはとても騒がしいのに、撫子の静かな声がはっきり届いた。体に浸透して、言葉で補わなくても心配しているのが伝わってくる。  すがりたくて、行き場が欲しくて。  脆い心は、差し伸べられた手へ救済を求めるように、疑問をぶつける。 「……撫子」 「ん?」 「……あたしはどうすればいい?」  普段は毅然とした印象の強い瞳が、ほんの少し揺れた。反らさずにあたしを見続ける。何か言いた気に口を開いたけれど、声にはならなかった。  お互いに沈黙している間、ハートのストラップに視線を止まらせていた撫子。見つめながら何か考えていたのか、唐突に首を振った。 「あんたが元気になるようなやり方、知ってたらとっくに教えてるよ」  鬱陶しそうに髪をかき上げると、再びあたしを凝視してきた。瞳からは迷いが消えていて、微笑んでさえいた。 「あいつ、上から下までどこからどう見てもバカだけど。でも、萱の感じてる不安を受け止めるくらいの器はあると思うよ」  力強く、きっぱりと言う。最後のひと押しとばかりに、あのバカ、といない人に向かってぼやいていた。  十六夜がこの場にいたら確実に殴られているだろう。その光景を想像したら、すっと胸が軽くなった。  冗談とも本気ともつかないような撫子の攻撃を、十六夜は避けもせずに受け止める。いつの間にか当たり前になっていた光景で、あたしが居たいと願う場所だ。笑いの耐えない、大好きな場所。  悲しみで埋め尽くされた頭に笑い声が蘇る。固まっていた頬がほころび、少し笑うことができた。 「それ、褒めてんの? けなしてんの?」 「どっちかと言えばけなしてるわね」  トレイの広告を見つめながら鼻で笑う彼女に釣られ、あたしも吹き出した。  キャッキャと子供っぽく騒ぐ十六夜を思い浮かべているに違いない。あの満面の笑顔は……卑怯だ。もらい泣きみたいに伝染する力がある。あたしはそれに対抗する手立てなんて一切知らない。  息苦しかった胸を解放して、大きく息を吸い込んだ。  プラスの感情とマイナスの感情があるから、人は平穏を保てると十六夜は言っていた。それなら、マイナスに傾いたあたしは、撫子の手と十六夜の笑顔に支えられたのだろう。  お腹の底に溜まった泥のような気持ちを追い出したくて、長く息を吐いた。 「ありがとう……すごく楽になった。あたし、撫子に甘えてばかりだね」 「何言ってんの。萱の場合、甘えるくらいが丁度良いわよ」  ストローを勢い良く吸ってから、それにさ、とつけたす。 「転校だか何だか知らないけど、離れるのってまだ先でしょ。だったら、泣くのは先に取ってても良いんじゃない」 「へ?」  間抜けな声で聞き返すと、あたしが泣いていた時とは違う晴れやかな笑みを見せる。ジュースを左右に振ると、氷が軽快な音を立てた。 「今は楽しまなきゃつまんないじゃないの。折角の夏休みなんだから、蘇芳も一緒に遊び倒そうよ」 「…………」 「楽しむのは今! 泣くのは後回し! いつ来るかわからんものに怯えるなんて、もったいない。今は今しかないんだからさ」  撫子らしい持論を力説する。すっかり冷めたパイを握り、大きな口でかぶりついた。洗練された動きではないけれど、彼女は常に凛としている。長く真っ直ぐな髪は、芯の強さを表しているよう。見惚れながら、強く頷いた。  そうだね、その通りだよ。あたしは一体、何度撫子に諭されただろう。 「撫子ってかっこ良いよね」  素直な感想を述べると、撫子は一旦手を止めて答える。 「あたしも、性別間違えたって時々思う」 「彼氏にするなら撫子がいいな」 「はいはい。そんなこと蘇芳の前で言ったら川にダイブするから二度と言わないように」  そこまで言い切って、撫子は何か思い出したようにピタリと口を止めた。ナゲットに手を伸ばしたあたしをしばらく見つめると、大慌てで残りのパイをたいらげる。 「ど、どうしたの?」 「川で思い出したの! 来月の花火大会行くんでしょ?」 「そのつもりだけど、それがどうかしたの」  畳んだ包み紙をトレイに置くと、撫子は人差し指を立てた。そのまま、勢い良く鼻先に突きつける。 「あたし、邪羅君捕まえて別行動取るからさ。その間に、蘇芳に何もかも話しちゃえば?」  ――目の前の指が楽しそうに揺れたのは錯覚だろうか。  勘ぐる心は、含むような笑顔にかき消されてしまった。その道しか選べないと言いた気な笑顔が残る。  遊ぶ予定しかなかったんだけどな。言えないセリフを飲み込んだ。 「……暑い」  あたしはうなだれていた。  数日前、撫子が『花火大会を楽しもうプラン』を提案してきた。必要物資から混雑予想まで含まれており、花火を十二分に楽しめるプランだった。その中で、昼からの場所取り組と食料とかを調達する買い出し組に分かれようという話が出たんだけど。  買い出し組は撫子と邪羅さん、場所取り組はあたしと十六夜という組み合わせに決定された。  もちろん撫子の一存。口を挟む隙間なんて髪の毛サイズすらもなかったし、誰も文句は言わなかった。  そんな訳で花火大会当日の今日、針で突き刺されるような痛い陽射しの中、見晴らしの良い場所を確保しにやってきた。事前の打ち合わせで指示されていた物を買い込み、場所取りを決行した。  ……落ち着かない気持ちと共に。  今、隣に十六夜が座っている。普通の肌をしたあたしでさえ陽射しが痛いのだから、色素の薄い十六夜にとって、この炎天下は拷問だろう。頭を垂らし、後頭部を丸見えにしたまま固まっている。  持ち合わせの中に、日よけとして効果を発揮しそうな物はなかった。陽射しのことは事前に知らされていたけれど、話半分に聞いていて対策を怠ったせいだ。 「萱、花火始まるまでどれくらいかかる?」  名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。見られていなかったのに、後頭部から顔を背けた。  今日、あたしは想いを告げる。その決心が気持ちを敏感にさせた。何気ないひと言にも不自然な反応を見せてしまう。  ぶつかりそうな膝を少し離して携帯を開いた。ディスプレイには三時半の文字。 「あと三時間半かかりそう」  時間を伝えたけれど、無反応だった。あと数時間、太陽と争わなければならないと悟ったんだろう。  ……仕方ないなぁ。  かばんを引き寄せて下敷きを取り出し、後頭部から十六夜を扇いだ。途端、落ちた肩がぴくりと動く。  十六夜は顔を上げてこちらに向き直り、下敷きに当たりそうな距離まで顔を寄せてきた。頭の後ろでまとめた髪が気持ち良さそうに揺れる。 「生き返る」 「死ぬな。ってか、新しい飲み物買ってきたら?」  普通を装って切り返し、足元のオレンジジュースに視線を落とした。  三十度を超える気温だと温くなる速度も早い。十六夜と言えど、今は甘い飲み物より冷たい飲み物のほうが癒されるだろうと思った。だから尋ねてみたのだけど、彼は力なく首を振る。 「……ここで買ったら、負けな気がする」 「誰との戦いよ、それ」 「自分」  そう言って、顔をしかめながら手招きした。下敷きを寄越せってことらしい。手渡すと、Tシャツの裾を伸ばして風を送っていた。肌を通り抜けて、汗の香りをここまで届ける。  黙々と扇ぐ十六夜は放置して辺りを見渡した。  数分歩いた距離に大きな川が流れている。日頃ならせせらぎの音が聞こえるんだろうけど、今日は熱気が満ちあふれている。周囲も瞬く間にビニールシートで埋まっていき、お祭りの雰囲気が漂い出した。  時間をかけてやっと、十六夜の目元がはっきりしてきた。瞬きをした直後、我に返ったように下敷きに目を止めた。 「何で下敷きなんて持ってるんだ?」 「うちわが家になかったのと、時間潰ししようと思って」  脇に置いたかばんから一冊のノートを取り出し、十六夜に差し出した。 「知ってること、何だかんだで話せなかったからさ。メモしたくて持ってきた」  休み中だと、お目にかかる機会が激減する数学のノート。今までは十六夜のノートを使っていたから、これには何も書かれていない。だから、わざわざ数学を選ぶ意味もなかったけれど、何となく数学が良さそうな気がした。  十六夜は空いた手でノートを受け取り、表紙を見たけど、ほぼ一瞬だった。下敷きとノートを揃えて、即座に戻してくる。 「今日はいいや」 「どうして? ハートのことはいいの?」 「普通の日って決めたからな」 「へ?」  普通の日という表現が掴みきれずにきょとんとしていると、 「今日は普通に楽しむ日。だからハートとか考える気は、なーい」  立ち上がり、気持ち良さそうに体を伸ばす十六夜。 「高校生の夏、楽しむんだろ?」  太陽を背負っているから顔に濃い影を作っていて、どんな表情をしているのか本当はわからないんだけど。  何だろう、フワリとした笑い顔が見えた気がした。  「ちょっと待ってて。何か冷たいもの買ってくるから」  そう言って、サンダルを履いて足早に去っていった。  いってらっしゃいも飲み物のリクエストも言えずに、ぽつんと取り残される。遠ざかる背中を無意識に追っていたけれど、髪を焼く痛みによって正気に戻らされた。  ……反則だ。反則過ぎる。  ノートで顔を隠す。こんな顔、知らない人にも見られたくなかった。 「負けるとか言ってたのに……どうして買いに行っちゃうかな」  自分をごまかすための悪態は、紙に吸い取られるほど小さい。跳ね返った熱い吐息をふりほどいて、青空を仰いだ。  照りつける太陽が眩しい。手をかざしても、指の隙間から光が漏れる。宝石にも似た輝きをぼんやり眺めると、撫子の言葉が急に蘇ってきた。 「今は今……か」  あれから何度も何度も反芻した。聞かされた時も、撫子の言う通りだと強く頷いた。  だけど、その先を考えようとすると思考が停止した。今は今。それは良くわかっている。むしろ、あたしたちには今しかない。 「あたしはどうしたいんだろう」  決心が、あっさりと揺らぐ。  未来を優先して戦いに飛び込むのも、後悔しないように今を優先するのも、どちらも正しい気がする。なぜなら、両方選んだ結果だからだ。選ぶという行為そのものが正しいんだ。  でも、今のあたしには正しさが重い。 「十六夜は……どう思う?」  いない人を想って、問う。当然だけど返ってこない。  視線の先にはまるい雲。濃い空に浮かんで、地上の喧噪に惑わされることなく、ゆったりと流れる。あたしは見送るように眺めたあと、再び俯いた。  どのくらいぼんやりしていたのだろう。とりとめのないことを延々と考えていたら、頭の上にシャリっとした音と冷たい感触が乗った。 「ただいま、あんどお待たせ」  悩みの根源が戻ってきたらしい。条件反射が働き、下敷きで顔を隠す。 「ねーさんから連絡あったぞ。萱に連絡つかないとかで理不尽な怒られ方された」  透けた向こう側にペットボトルが見えた。背後から伸びている腕が、ペットボトルの底で下敷きを叩く。鼻にあたって、ちょっと痛い。 「麦茶は不満でございますか」  ペットボトルをブラブラさせるので、大人しく受け取る。 「おかえり、ありがと。連絡はごめん……わかんなかった」  頬に麦茶をあてる。顔の熱を冷やしながら、かばんに入れた携帯を確認する。五件ほど着信履歴が残っていた。振動音に気づかないほど、物思いにふけっていたらしい。 「ねーさんから伝言。あと三十分したら着くってさ」 「うん、わかった」  正面に座った十六夜は棒アイスを取り出すと、袋の端を口にくわえて、乱れた髪をまとめ直した。整ったところでアイスを手に持ち替え、無造作に破って棒を手に取る。そして、かじりつく。何の変哲もない普通の光景。  もらった麦茶を握りしめたまま一連の動作を眺めていると、バチッと目が合った。 「アイスの方が良かったか?」  不思議そうに眉をひそめた十六夜は、一口かじったアイスをあたしに向ける。もちろんアイスが欲しくて見ていたわけじゃないので、顔を振って辞退した。  この距離でもわかる、首筋の汗。一心不乱にアイスを食べているからか、何となく甘そうな気がした。 「十六夜ってさ」 「ん?」 「何でそんなに甘いもの好きなの?」  かねてから疑問に感じていた、わざわざ聞く理由も見つからなかった質問。撫子と邪羅さんが来てしまうと、のんびりと話せないだろうから口にしてみた。聞いたところでどうなる話でもないけど、十六夜が手にするものは何もかもが甘いから聞いてみたくなった。  十六夜は口の中のアイスを飲み込むと、  「好きだと思ったから」  そう、平然と言ってのけた。 「えっと……好きだと思う理由を聞いているんだけど」  シンプルな回答に戸惑い、さらに問い返す。だけど十六夜は、理由なんているの? と、答えにならない答えを戻す。  すでに半分以上なくなった棒アイス。食べづらくなったのか、つけ根側をかじっていた。 「好きだから好き。それ以上の理由が見つからん。萱だってそうじゃね」 「あたし?」 「そう。萱」  頻繁に名前を呼ぶのは彼の癖だろうか。まごつきながら指摘内容と自分を照らし合わせてみるも、思い当たるものはない。  目を泳がせるあたしを見て、十六夜はさらに続ける。 「花火を見にきたのは何でだ?」 「高校生の夏を満喫したいから」 「それなら自分たちでやってもいいだろ。なのにわざわざ会場まで来たのは?」 「打ち上げ花火を見たいか、ら?」  花火大会は五歳くらいの時に家族と来た記憶しかない。中学の時はどんな理由でも夜出歩くのを禁止されていた。 「じゃあ、どうして見たいんだ?」  意見をどんどん掘り下げようとする十六夜は、棒から落ちかけたアイスを口で受け止める。夏ならではの光景を眺めながら、おおいに納得していた。  見たいって理由以外は特に思いつかない。顔を上げ、数時間後に咲き誇るだろう光の花を思い浮かべる。空に腕を伸ばして大きさを想像していると、十六夜はアイスの棒で円を描いた。 「単純な感情に理由づけしたがるやつ、結構多いけど……そのまんまでいいと思うぞ、俺は」 「そのまんまって、感じるままの気持ちで良いってこと?」 「そそ。それが、俺の考える正解」  アイス棒で鼻先を指す。 「言いかえると、素直になれば良いってこと」  異様に大きいスポーツバッグを持ってきていた十六夜。アイスの棒をコンビニ袋にまとめると、風に飛ばされないよう、かばんの下に挟み込んだ。 「素直、か」  聞かれない程度に呟き、麦茶で喉を潤した。 「……難しいよ」 「何で?」 「何でって」  言葉そのままに返すと、十六夜は片膝を立てて座りなおした。無言で見つめてくる目は、あたしに理由を求める。  素直になれば良いということは、正直に答えて欲しいんだろう。嘘をついたところで利点もない。短く、簡潔に答える。 「簡単じゃないから」  今の自分と照らし合わせても間違いなく言い切れる。素直になるのは難しい、と。  あたしの回答を聞いた十六夜は、ひと差し指でリズムを取っていた。とんとん、と軽い振動がシートを介して足に届くと、透明度の高い視線とあたしの視線が静かに重なった。目をふち取る睫毛が瞬き、十六夜は真理を放つ。 「自分と人の意見が違うのが嫌なのか?」  息を飲んだ。  何ひとつ、反論が浮かばない。それどころか動揺さえしている。  そう……なのかな。  返答に困っていると、足をほどいた十六夜があたしに近づき、眉間を人差し指で突いてきた。 「何すんの!」  抗議もどこ吹く風。互いの膝同士がぎりぎり触れない位置に腰を下ろし、あたしの顔を下から覗いて話し出す。 「人と人の意見がぴったり合うって、限りなく少ないぞ?」 「え?」 「人の気持ちや意見がわからないのは当たり前。何せ、同じ環境で暮らして同じもの食べたって、意見は変わってくるんだからな」 「…………」 「だから、素直になって良いんだよ。その分、自分とは違う相手を理解しようとしてやれば良い。わからなくても良いから考えてやれば良い」  姿勢を正し、柔らかく笑った。 「それが、学ぶということだ」  ――この時はじめて。十六夜が担ぐ『叡智』という感情を、理解した。理解しきれていなかったものが、ああ、そういうことなんだな、と腑に落ちた。  十六夜は相手の言葉に耳を傾けて、くまなく観察する。それが、知るということであり、受け止めるということ。  以前、十六夜は叡智に似合わないと思ったけれど、十六夜以上に相応しい人はいないんじゃないだろうか。  胸が、どきどきする。それなのに、清々しい気持ちに満たされた。 「……そんなもんか」  これこそ、あたしの素直な気持ち。伝えたい言葉ではないけれど、正直な今の気持ち。 「そんなもん、そんなもん」  十六夜も感じてくれたのか、機嫌良さそうに頷いてくれた。  携帯があたしを呼びつけたのは、その直後のこと。顔を合わせて、へへっと笑い合った時だった。 「凄かったね……打ち上げ花火ってあんなに大きかったんだね」  終わった感動をそのまま表現した。まだ興奮は収まらない。  あの後、撫子や邪羅さんと合流し、花火の時間まで雑談をしたりトランプをしたりして時間を過ごした。もちろん、たこやきや焼きそば、フランクフルトなどの救援物資に舌鼓を打ちながらでもある。  六時になっても空が明るく、少し不安になったりもしたけれど、徐々に暗くなる景色を眺めながら過ごす時間は格別だった。  そして、七時。  携帯のデジタル時計を見ながら、あたしと撫子はカウントダウン。ゼロ! と重なるふたりの声と当時――夜空の半分を埋め尽くす大きな大きな花が咲く。  直後、その大きさに負けないパンチのきいた破裂音が、肌を痺れさせた。  会場では歓声が沸き上がり拍手が響きわたる中、あたしと撫子は手を取り合いながら感極まってキャアキャア言っていた。  写真に残そうと必死に撮ったけれど、携帯の小さな画面に残す花火は、同じようにとても小さくて。迫力や火薬の匂い、周りの熱気……あたしが閉じ込めておきたかったものは、そこには入らなかった。  形に残すことを諦めて、その世界にひたすら入り込む。大会の終了を告げる、今日一番の花火が上がるまで、顔を他に向けることなく空を見上げ続けた。  素肌と網膜に残る余韻を噛み締めたまま、駅に向かう人の波に乗り……現在に至る。 「来年もまた来ようね」  満員電車状態の中、目前を歩く人との距離に注意を払いながら撫子は微笑んだ。彼女のかばんを掴んではぐれないようにしていたあたしは、自分のところまで飛んできた煙を思い起こす。 「次はもっと大人数にしたいね。学校のみんなも誘おうよ」 「……だってさ蘇芳。あんただけお払い箱だね」  撫子は真後ろで自分たちをマークしている十六夜に振り返る。白い歯を見せて意地悪そうに笑った。 「なんで俺が除外されるんだよ。学校のやつらを誘うなら、仲間はずれになるのは邪羅だろ」  口を尖らせて文句を言う十六夜は、邪羅さんに白羽の矢を立てたのだけど反応がない。背後をちらりと見ると、薄暗い明かりに浮かぶ虚ろな顔が見えた。 「大きい花火は感慨深いですが、さすがにこの人ごみはちょっとキツいですね」  口を塞ぐ邪羅さん。伏せた視線と顔色から推測すると、どうやら人酔いしたらしい。 「ほら、捕まってろ」  十六夜は手をポケットに突っ込んだまま、ひじを寄せる。邪羅さんは信じられないといったように大きく目を見開き、十六夜の腕を押し戻した。 「男と腕を組むなんて余計気持ち悪くなります!」 「失敬な。俺の優しさを見せただけなのに」 「あんた……どんだけバカ?」  うなじへ風を送る撫子が、十六夜に冷たい言葉を投げつけた。何か言いたそうな十六夜だったけれど、彼女は十六夜の顔を見ていないからか、さらに続ける。 「そうじゃないでしょ。場所、代わるわよ」  かばんからあたしの手を引き離し、十六夜の腕を掴んで無理矢理場所を交代する。あたしと十六夜、後ろには邪羅さんと撫子という並び順になった。 「あたしだったら文句ないでしょ。腕は掴み難いだろうから、肩を持って」  彼女は左肩に掛けていたかばんを反対に掛け直し、髪が邪魔にならないようまとめてから肩を出す。邪羅さんも自分で危ないと判断したのか、撫子の肩におそるおそる手を置いた。 「倒れそうになったら言って。どうせ家近いんだし、面倒見るわ」  手で邪羅さんの顔を扇ぐ撫子。涼しい風が流れてくれれば楽になるのだろうけど、他人と簡単にぶつかるこの状態では風が入る隙間がない。その上、同じ時間同じ場所で同じものを見上げた人たちの高揚感が熱を生み、帰り道を包み込んでいる。耳が痛いほどのざわめきでは、回復することは早々ないだろう。  後ろをずっと伺っていると、つま先が何かに触れた。その矢先、体が壁のようなものにぶつかる。どうやら前の人が立ち止まったらしい。  すみません、と謝罪すると前の人は振り返らずに、軽く頭を下げた。 「後ろは大丈夫だから、ちゃんと前見て歩いて。蘇芳も何ボサッとしてんの!」  撫子が十六夜の背中へ勢い良くパンチをお見舞いする。 「痛ぇ! 暴力反対! 暴力反対!」  リズム良く騒がしく抗議する。小学生が好むノリを、素でやってのけるのが十六夜クオリティー。 「うるさい。ってか、あんた面倒くさい」 「別に何もしてないだろ?」  すっとぼけた声を出す十六夜に、撫子はこの暗さでもわかるくらい苛立っていた。 「だからダメなんでしょうが! あぁ、もう気づけ! 死ね!」 「ひどい」 「わざわざ説明させないでよ……学校だったら勝手に振る舞うくせに」 「は?」 「さっき邪羅君にしたようにすればいいの!」  もう一度パンチを繰り出すと、十六夜は何か悟ったのかなるほどと呟いて、 「萱、捕まってろ。はぐれるから」  そう言って、ひじをこちらに寄せた。あたしはそれをしばらく見つめたあと、撫子にゆっくりと振り返った。彼女はしたり顔で頷き返す。  ここでようやく合点がいった。どうも、腕を組めってことらしい。  ちょうどその時、謀ったように人が流れてきて押されてしまった。必然的に、体が十六夜になだれ込む。差し出されたままのひじが、二の腕に刺さった。 「……痛い」 「ほら、危ないでしょ。とっとと腕組んで」  後ろから聞こえた声は、早くしろと急き立てる。  勇気が出なくて躊躇していると、人の波に再度流された。今度は二の腕だけでなく、体全体が十六夜と密着する。心拍数は一気に加速。十六夜にばれていないだろうか、そんなことばかり気にしていると、本格的に体が流されはじめる。  これは、迷っていると本当にはぐれる。 「し、失礼します」  恐る恐るひじを握らせてもらった。熱気よりも熱い指をきつく絡ませ、人の流れに何とか堪える。十六夜も誘導してくれたので周りに空間ができ、しばらくすると人の流れが普通に戻った。 「怖かった」  胸を撫でおろす。だけど、右手が落ち着かない。触れているだけなのに、まるで火傷でもしたような錯覚を覚える。締めつけられる胸の痛みは会場を出るまでとても耐えられそうになく、悪い印象を与えないよう注意を払って、握る手をそっと緩めた。今は指先だけが触れている。  撫子は許容範囲ギリギリの状態を察してくれたらしい。振り返って涙目で首を振ると、おもむろに苦笑いを浮かべる。 「蘇芳さぁ、萱を家まで送ってあげてくれない?」  後ろ頭を見上げて提案を投げかける撫子。あたしと十六夜を見比べていたら、言われた本人は遠くを観察するようにつま先立ちをしながら返事した。 「大丈夫。はじめからそのつもりだし」 「はぁ!?」  目を細めて言う十六夜に、あたしは驚く。 「そんな当たり前みたいに言われても、初耳だし」 「だって、どう考えたって遅くなるだろ? ねーさんと邪羅は俺たちと帰る方向違うし」 「確かにそうだけどさ」  渋々肯定する。  もう少し一緒にいられる……そんな嬉しさと、どんな顔して十六夜と並べば良いのか……そんな戸惑い。見栄。  どうしようもなくて。どうにかしたくて。何もできなくて。  アンバランスな心境を胸に押し込めていると、撫子が唐突に吹き出した。 「蘇芳に送らせたほうが危険かもしれないわね」  ケラケラと屈託なく笑う。 「おいおい……何度でも言うけど、俺は『純・情・少・年!』」 「ただのヘタレじゃないの?」  十六夜の嘘っぽい反論を、ばっさりと切り落とした撫子。盛り上がりを見せはじめたどさくさに紛れて、十六夜の腕から手を離した。わざとらしくは、なかったと思う。だけど、十六夜はすぐに気づく。  ポケットに入れたままの手を出すと、あたしの手首をがっちり握りにきた。汗ばんだ、大きな、男の人の手。  十六夜の顔が、見られない。あたしの顔も、どうなっているんだろう。  混乱しているのはあたしだけらしい。十六夜は撫子との漫才を淡々と続行させていた。 「ひどいなぁ。でも、違わない」 「認めるんだ?」 「おー。俺ヘタレだよ。ヘタレ上等」  ちらりと顔を見ると、何だか誇らし気。  自慢するようなことじゃない。だけど、自慢してしまうのが十六夜だ。  混乱したあたし、漫才をするふたり、酔った邪羅さん。四人でゆっくりと歩みを進めていると、ある境から人の流れが急に早くなる。そうなれば早いもので、肺に入る空気を冷たく感じた頃には、会場を抜け出していた。 「あのさ。さすがにこの状態じゃ辛いだろうから、あたしたちは後から電車に乗るよ」  数分で駅まで辿りつけるような距離のバスターミナル。気分の優れない邪羅さんをベンチに座らせ、三人で駅を遠巻きに眺めていた。撫子は溜め息、十六夜は無言を落とす。かく言うあたしも途方にくれていた。  やっと切り抜けたはずの人溜まりが、駅に入る行列を作っていた。入場規制までしているらしく、何百人という数が止まったままだ。人混みを避けて歩く人は違う駅に向かうらしいけど、並ぶのも歩くのも邪羅さんがこの状態では選べそうになかった。だから撫子は、後から乗ると言ったんだ。 「ふたりで大丈夫か?」  十六夜が、ベンチでうなだれる邪羅さんを気遣う。目の前の人物は返事をしそうにないので、撫子が変わりに答えた。 「しばらく座ってたら大丈夫でしょ。全員で残ってたら、もっと遅くなっちゃうしね」 「そうか」 「飲み物くらいは欲しいかな。蘇芳さ、ちょっと邪羅君見ててよ。萱と一緒にジュース買ってくるわ」  撫子はあたしの腕を掴み、高架下のコンビニを目指して歩き出す。俺が行こうか、と言う十六夜の声を背中に受けたけれど、撫子は彼に向いて、 「あんたが適任なの!」  と、大きく手を振って十六夜を置いて行った。急いでるのか、大股でずんずん歩く撫子についていくのがやっとだった。 「どうしたの、そんなに急いで」 「ここまでくれば大丈夫かな」  ひとりで安心したように呟くと、撫子は掴んでいた腕を離してあたしの顔を見た。二度ほどまばたきをすると、悪代官とか越後屋とか……その辺りの悪役を小粒に感じてしまうような、黒い笑顔を浮かべた。  あたしの背中が凍ったのは言うまでもない。 「で、どこまでどうしたの?」 「何が?」 「すっとぼけちゃって。腕を組めって言ったのに、手を繋いでたでしょ」  嬉しそうにはしゃぎながら、あたしの肩や腰をピシパシと突き刺す。手で防ごうにも、素早い手の動きに追いつけなかった。  攻撃を受けないよう少し身を引いて、大きく首を振る。 「十六夜に手首を掴まれてただけだよ。繋いでないって」  握られた手首をさすって告白すると、撫子は奇声を発する。興奮した勢いそのままに、背中をバシバシ叩かれた。 「い……痛いって」 「身長差あるからあんたの手まで届きにくかったんじゃないの? 萱から繋いであげれば良かったのに」  満足そうに頷くと、コンビニに向かってスタスタと歩いて行った。風になびく黒髪を慌てて追いかけ、隣から顔を覗き込んだ。まだ変な笑いを浮かべている。 「ねぇ、あたしと邪羅君を待ってる間、ちゃんと伝えたんでしょ?」 「ううん。まだ何も言ってない」 「はぁ!?」  顔が一転、面食らった表情に変わった。 「あたしたちと合流するまでの間、ずいぶん時間があったでしょ」 「そうだけど、あまりに暑くて……それに」 「それに?」 「決心っていうか……答えが見つからなかったの」  迷い、探して、やっとの思いで掴んだ答えでさえ、時間を置いたら新たな迷いが生じる。悪循環に陥って言えなかった。結論を見つけられなかった。  真顔で見つめる撫子は、眉間に大きな皺を寄せて難しい顔をしている。  安心させたい。たくさん支えてくれた彼女の手を握り、精一杯の微笑みを浮かべた。 「だけど、大丈夫だよ」  昼。十六夜の話を聞いて決めたのは、わずかでも良いから踏み出すこと。  コンビニがもたらす眩しさに目眩を覚えながらも、あたしははっきりとした口調で伝えた。 「今夜伝える。ありのままの気持ち、全部伝えるから」  自宅の最寄り駅に着いたのは、九時を過ぎた頃だった。ひと駅分歩いてから電車に乗ったので、噴水公園に辿り着いた時には疲れきっていた。噴水のベンチに座って、しばしの休息。  遅い時間だからか、噴水から水が出ていない。いつも存在を主張する水音が消えているので、小さな音が浮き彫りになった。樹が揺れると葉ずれの音がする。風の抜けると遠くで空き缶が鳴る。本当にあの公園なのかと疑いたくなるほど様相が変わって、不気味に感じた。  少し離れたところで、砂利を踏みしめる靴音がぴたりと止まる。立ち止まった十六夜は、重そうな鞄を下げたまま束ねた髪を解き出した。長髪が風になびき、弱々しい街灯がかすかに反射する。 「どうかした?」  首を一周させて公園を観察しているので、思わず声をかけた。コンクリートの地面に靴の裏をこすりつけ、何かを確かめている。立ち上がって近寄ろうとすると、くるりと振り返った。 「二次会やんね?」  そう言って、こちらにズカズカと寄ってきては、大きなかばんを隣のベンチに置いた。 「二次会?」  一体どういうことだろう。こんな夜遅くに遊びに行くつもり?  かばんを探る十六夜をぼんやり眺めていると、 「ジャジャーン!」  古くさい効果音をつけ、なんと花火セットを取り出した。しかも、手持ち花火のみのタイプじゃなく、何種類も詰まっているバケツサイズ。 「花火の二次会は、やっぱ花火でしょ! やりたかったんだよな、実は」  花火セットをベンチの背にもたせかけると、満面の笑みでチャッカマンを握りしめる。ピストルみたいに持ち、バーン! とか言って、あたしを撃つふりをした。火力が最大なのか、噴出する火の勢いが強い。 「な、準備万端だろ? あとは水だけだけど、噴水に溜まってるやつ使えばいいし」  顔の真横で軽快な音を立て、着火と消火を繰り返す。その表情は、はじめてもいないのに満足そう。  本当、どうしようもないなぁ。暗闇に包まれているのを良いことに、口元を思いきり緩ませる。 「うん! やろうやろう!」  お腹の底から明るい感情が湧き出た。とん、と地面を蹴ると夜空にまで昇ってしまいそうで、くすぐったい。疲れなんて一気に吹き飛び、今すぐはじめたくて駆け寄った。  ふたりとも自分が先だとばかりに、頭を突きあわせて中身を物色する。どの花火が良いか吟味していると、十六夜は噴き出しタイプを等間隔に並べはじめた。 「ちょっと、何やってんの?」 「へ? いや、どんなんかなと思って」 「それは一気にやる花火じゃないよ」  チャッカマンをしつこいくらいカチカチ言わせている十六夜に文句を言うと、ぴたりと置くのをやめた。 「そんなもん?」 「うん。メリハリ効かせないとね」 「ふーん」  花火を放置して戻ってきた十六夜に、持っていた手持ち花火を渡す。相当気に入ったらしいチャッカマンを無理矢理剥ぎ取り、手持ち花火の持ち方を教えて、花火に火をつけた。着火用の紙が燃えきらないうちに火薬に引火。花火大会のものには敵わないけど、それはそれは綺麗な火花が散って足元へ流れ落ちる。  さっきまで暗かったのに、顔や体の輪郭が花火の光で一瞬にして暗闇に浮かんだ。 「すげぇ、おもしろいな」 「ちょっとジッとしててね」  あたしは自分の分を握りしめ、先端を十六夜の花火に近づける。ボウ、と良い音を立てて光が二倍の量に膨れた。 「へぇ、そうやって繰り返していくわけね」 「その方が楽でしょ?」  ビー玉みたいな透き通った瞳に、ゆらゆらとした火花が映り込む。  光が落ちる光景が面白いらしい。花火を動かして残像を作る、その表情は真剣そのものだった。花火に負けないキラキラとした表情は、小学校にも上がっていない男の子っぽい。十六夜を知れば知るほど、嘘偽りない無邪気さに心がほぐされた。  新しい表情がもっと見たくなる。少しだけ悪戯心が芽生えた。 「うりゃ!」  十六夜の持つ花火が燃えきったと同時、手元寸前に火花を近づける。彼は驚きを声に乗せて、理想通りに飛び退いてくれた。 「怖っ!」 「油断禁物だよ! 花火は戦いにもなるからね!」  花火を振り回して熱弁した。  ここまで言ったなら、十六夜は何かを使って仕返しにくるだろう。ねずみ花火を使うのか、それとも違うものか。思案する十六夜を想像しているだけで笑いが込み上げてくる。口の隙間からふふ、と笑みが溢れると、 「ふんっだ」  拗ねたように花火を物色しはじめた。全て手のひらサイズのものを掴んでいるので、あたしの考えは大正解らしい。もう一度笑みが溢れると、手元から光が消えた。  ――その後。足元にネズミ花火を仕掛けにきたんだけど、冷静に離れたあたしを見たからか、彼は楽しむことに専念していた。メリハリを正しく理解した十六夜は、ほどよいタイミングで噴き出し花火から光を舞い上がらせる。危ないよ、と注意してもふざけて近寄り、火薬以外の焦げ臭い香りを漂わせた。  花火を振り回して空中に大きな円を作ったり、ネズミ花火をいつまで持ち続けられるかの競争をしたり。笑い声が混ざり合う穏やかな時間に流され、花火はあっとういう間になくなった。  残ったのは、線香花火が十本。その半分を十六夜に渡す。  噴出し花火の残骸から、少しだけ紙を破って火をつけた。コンクリートの地面に置いて、近くに腰を落とす。  チャッカマンでやる気満々だった十六夜も、意図を汲み取ってくれたらしい。あたしに倣ってしゃがみ込んだ。ふたりの膝を、柔らかなオレンジの光が照らす。 「線香花火、知ってる?」 「知識では知ってるけど……ほら、花火は見るのもやるのもはじめてだからさ」  愚問だった。  頷くことさえできず、黙ったまま一本、火をつけた。 「線香花火はね、火の玉が落ちやすいの」  震えるような振動が肌に伝わり、雫の形をした火の玉が瞬く間に丸くなる。 「だから……最後まで落とさない人が勝ち」  繊細な音に合わせて、絞った声でルールを語る。たんぽぽの綿毛に似た火花が、線を伴って小さく爆ぜた。広がり、変わる火花を静かに見守る。  実は、最後まで落とさずにいられた経験がない。今日も経験通り、火花の種類が変わった瞬間、ぽとんと落としてしまった。 「あー……やっぱだめだった」 「じゃ、俺も」  十六夜は、紐の真ん中を持ちながらそっと火に近づけた。たぶん揺らさずに持ち堪えようって作戦だと思う。眉根を寄せて、移ろいゆく火花をじっと見つめていた。 「線香花火って感触も違うんだな。なんか……プルプルする」 「うん。そうだね」  パチ、と一筋咲いた。 「俺、他の花火は派手に光れって思うけど、線香花火にはこれ以上求められないかな」 「何それ」  後に続けと花火が次々咲いていく。 「これ以上光ると、雰囲気が台なしになりそう」 「あたしは……ちょっと弱すぎる気もするけど」 「ん?」  聞き返す十六夜があたしを見たもんだから、反動に耐えきれずに火が落ちる。名残惜しそうに光を失う火玉を見ていると……どうしてか、今の自分と重なって見えた。 「線香花火って弱いよね。もうちょっと耐えられたらいいのにね」 「耐える?」 「きっと、自分で落ちるの怖いって思いながら光ってる。勝手に震えて……勝手に落ちる」  二本目を手に取って種火に近づけた。 「それにね、線香花火って花火の締めにやるの。これが終わったら後は帰るだけ」 「確かに、これで最後だもんな」 「だから終わりのイメージが強いの」  爆ぜる音。虫の声。そよぐ風に、踊る木の葉。些細な物音がやけに大きく、耳に響く。  神経に侵入して感情を揺さぶると、奥底にしまい込んだ気持ちを呼び起こした。くすぶり続けてきた、向かい合おうとしなかった、痛み。 「……あたし怖い。終わるのが、怖い」  指先に、臆病な振動が伝わってきた。集中が途切れればわからないような細かい振動。 「全て終わって、ハートと離れて……あたしは普通に戻って」  視線は花火から一瞬も動かさなかった。  十六夜も花火を見つめていると感じたから。同じものを見ていたかった。 「撫子と街で遊んだり、授業中話して先生に怒られたり……そんな毎日が待ってる。でも……」  火花の質が変わった。パチパチとした音も細くなる。 「でもさ、そこに十六夜はいないんだよ。そんなのヤダよ……あたし」  普通でいたい、そんな願いと。  隣にいたい、そんな願い。  同時には叶うことはない。でも気持ちが追いつかない。  現実がせせら笑って先を歩く。置いて行かないで。置いて行かないで。あたしの声はどこにも届かず地に落ちる。一緒に見えるのは、止まったままの情けない足。  風が光をさらって吹き抜けた。持ち堪えられそうもなく、すぐさま三本目に火をつける。 「十六夜と離れるくらいなら、ずっとハートでいたい」  そして、こんな関係がずっと続けばいい。普段は撫子と三人でバカやって、戦いになれば力を合わせて乗り越える。ハートが目覚めませんね、なんて邪羅さんが言って、十六夜が笑って場をやり過ごす。  くだらないことを願う自分へ、最低だと胸の中で毒を吐く。言ってすぐに後悔した。  伝えたかったのは弱音じゃなくて、十六夜を大切に思う気持ちだった。それなのに、浅ましい考えが突いて出た。彼がどれだけ苦労しているのかも知っているのに、自分の保身がまっ先に浮かんだんだ。  十六夜はこの気持ちを理解しようとしてくれるだろう。だけど、そんな醜い自分知られたくない。 「ごめん十六夜、わがままだった」  揺れる心に連動して、三本目は早々に火を落とした。残った紐を手から滑らせ、首を振って彼を見た。火と一緒に、愚かな自分も消し去りたかった。 「忘れて……大丈夫、がんばるから」  顔をほころばせようとしたけど、頬が笑顔に抵抗した。ちゃんと笑えていないのが推測できる。救いだったのは、暗闇に包まれていること。小さくなった種火では、表情までは読み取れないはずだ。現に十六夜は何も言わない。  目尻に水分を感じるのは、きっと煙のせい。焦げ臭い香りを吸い込んで、四本目に手を伸ばす。残りは一本。名残惜しくても、無言は耐えきれそうにないので、消えてしまいそうな炎を拾う。すると、 「俺も同じ。いや、俺の方がもっとわがまま」  黙っていた十六夜が花火を寄せてきた。 「俺が人間を羨ましく思う理由は簡単。ここが好きだからだ。萱の隣も学校の空気も楽し過ぎて、帰るなんて考えたくなかった」  線香花火が二本、隣り合わせに並ぶ。光が今にも触れそうな距離。 「人間がどんな生活をしているのかは知っていたけど、整理された知恵であって生の息吹じゃなかった。知った気になっていただけ」  互いの火花がわずかな時間差で散った。地面に落ちる前に灯火は薄れる。 「人としてここに来て、人として暮らして。好き嫌いだけじゃなく、色んなものがぎゅっと詰まった……それこそ花火みたいな弾けるような毎日でさ。離れよう、なんて思えないよ」  吐く息が花火にかかると、彼の火玉だけがぽとりと落ちた。 「だけど、ハートは回収しなければならない。両方の考えが堂々巡りしていた。でも最近は」  十六夜は三本目の花火に火をつける。 「ここにいたいって気持ちのほうが勝ってた、かな。だから今日は……今日だけでも、人として普通に楽しみたいって」 「十六夜……」  瞳に、十六夜の火とあたしの火が映り込む。愛おしそうに見つめていて、落とさないように気を遣っているのがじんわりと伝わる。  一緒。  密度の高いこの時間。過ぎてしまうのが惜しく思う、その気持ちは同じだった。体の中心が温かくなる。ほっとして胸を押さえていると、十六夜は視線を落としたままふわりと笑った。 「でも、俺が何よりも望むのは……萱が萱であること」 「え?」 「萱が、普通に萱らしくしていること。ハートとか関係ない、普通に萱。俺の一番の願いごと」  肩が震えた。四つ目の火が、釣られて落ちる。 「ハートを離すんじゃなくて、非日常を引き離す。本来の目的とは違うけど、俺はそれがいい。萱も、生活も、全部大事にしたい」  彼もゆっくりと顔を上げた。 「な? 俺のほうがわがままだろ? わがままっぷりだったら、萱には負けないぞ」  堂々と言い切ってVサイン。十六夜の火も落ち、続くように火種も消えた。暗闇が戻り、視界を黒く塗り潰す。  ――あぁ、あたしを見失ってしまう。  決壊したのは理性。我が身可愛さも途切れそうな未来も振り切って、十六夜の胸に飛び込む。ぐらつきながらも、十六夜はしっかり受け止めてくれた。  大切なことを忘れていた。普通の十六夜を取り戻すために、ハートの世界に行ったじゃないか。あたしだって、十六夜には本来の十六夜でいて欲しいんだ。  どうかしてる、あたし。  どうしようもない、が正解かな。  長い片腕が背中にまわされる。開いた手はあたしを落ち着かせるように、優しく頭を撫でてくれた。 「ありがとう、十六夜」  思い出させてくれた。十六夜が十六夜でいてくれる限り、あたしは、普通のあたしでいられる。  腕や体から伝わる体温が、これ以上ない宝物のようで離れたくなかった。今まで感じたことがない、愛おしい気持ちが溢れてやまない。押さえが、きかない。 「十六夜、あたし、あのね……」  口が空気を求めるようにぱくぱくと動く。伝えると決心した気持ちは、今伝えるしかないと悟った。  おもむろに体を離す。そんな、絶好のタイミングで。  ――最悪の事態が訪れる。  風が異質なものに変化した。十六夜の体がピクリと反応する。  そして……夜空を引き裂くこだまが、公園中に鳴り響いた。  十六夜の動きは早かった。  月の方角から、無数の小鳥が輝きをまき散らして羽ばたく。青白い光を危険だと認識する前に、十六夜は杖を振りかざして全て防ぎ落とした。  彼が立ったことすらわからず、座ったまま呆然と眺めていた。 「こんなタイミングで来るなんて、空気の読めないやつだな」  軽快な音を立てて杖は踊り、ある一点……月を指す。影と化した人のシルエット。月に溶ける金色の髪。二度と聞きたくなかった声が、星空から高らかに降り注ぐ。 「残念だけど、私優しさは持ち合わせていないの」 「おまえがそういう性格をしているくらい熟知しているよ……怠惰」  十六夜の言葉を受けて、怠惰は地上に姿を現す。乱れた髪を耳にかけ、厚みのある唇で綺麗に笑みの形を作った。怪しく光る瞳に視線が絡みとられると、あたしは咄嗟に身を引いた。だけど、背後には噴水とベンチが立ちはだかる。  ――挟まれた。 「お久しぶり萱さん。元気そうで嬉しいわ」  人を蔑むエメラルドの瞳は、心にもない社交辞令を述べる。彼女の微笑みひとつで、体を支える左腕の傷が疼いた。寒気がする。  腰を上げて十六夜の背中に寄ろうとした時、隣に人の気配を感じた。数時間前まで一緒にいた人なので、雰囲気だけで誰なのかわかった。 「邪羅さん、大丈夫?」  ちらりと顔を見る。邪羅さんは何も言わず、真顔で怠惰を睨みつけていた。 「お陰様で」  唇を僅かに動かし、短く返事をする。想像していたよりはっきりした口調だった。酔いからは覚めているらしい。 「ただ、少々機嫌は悪いですけどね」  意図せず出た、といった風の小さな声。手にした槍を構えることなく、怠惰を静かに見つめ続ける。刺だらけの雰囲気に怖じ気づき、少し十六夜に寄った。足元にあった花火の残骸を踏んでしまい、場に相応しくない音が鳴る。  気づかなかったのか、怠惰は溜め息を交えながら品定めするように視線を這わせる。失ったはずの腕で長い髪をかきあげると、ブロンドの髪が微かな光を反射して美しく舞い上がった。  その後ろには深い暗闇。光の侵入を拒んでいるような空間は、否応なくあたしを呼び寄せる。次第には体の内部が暴れだして、押さえ込むので精一杯だった。  必死に呼吸を整えていた矢先、闇から足先が這い出した。影が一気に崩れ去る。足、腰、腕と、体の全てが黒で形成された服に身を包む人物が現れた。綺麗さを固めたような美しい顔が凍った表情でこちらを見る。あたしよりも、あたしの中にいるハートが良く知る人。  ――魁。  十六夜の杖があたしを守るように体の前へ伸び、徐々に淡く光り出す。  怠惰? 魁?  どちらから攻撃が来るのか。息を飲んで身構えていたら、不機嫌だと吐き捨てた彼が先に動いた。  邪羅さんは人差し指で空中を丸くなぞる。指の動きを追いかける光が、敵との中間地点に円を浮かび上がらせた。そして、槍を軽々と振り回した直後。槍を円に向かってまっすぐに投げつけた。円を通過し、分裂。怠惰と魁を目指して加速度を増す。  もちろん、彼らも黙って見ていたわけじゃない。怠惰はすらりと伸びた両手から光の玉を生み出し、目前まで接近した槍を消滅させた。  続いて魁。漆黒の剣をひるがえして風に乗る。殺到する槍を、光の円ごと切り捨てて猛進した。速い。  あたしの近くで争うのを避けるためか、新しい槍を握る邪羅さんは、迫り来る魁に踏み込む。耳障りな、重い金属音が場を満たした。 「相変わらずお強いですね、まったく」  文句を吐き捨て、邪羅さんは追撃をかける。一挙一動を眺めていたけれど、こちらも悠長に傍観していられなくなった。  邪羅さんと魁の背後で、豪華な髪がひらりと広がる。  怠惰。  彼女が左腕を突き出すと同時、閃光が生み出された。太陽に似た明るさを放出し、空以外の景色を本来の色に染め上げる。解き放たれた光の玉は、樹を覆い尽くすほどに膨張。留まりを知らないまま、こちらに突進する。 「ちっ」  十六夜は杖を振りかざす。杖を包む淡い光は夜を吸い上げ、先端に闇が固まり出した。  「動くなよ、萱」  杖から落ちた闇は地面で跳ねる。十六夜の視線まで浮くと、瞬く間に伸びて光を遮った。互いにひび割れて余韻が飛び散る。  十六夜は隙を作らない。杖の先端で地面を叩くと巨大な立方体が三体、コンクリートから飛び出た。虹色を反射させ、並んで浮いている。 「突撃!」  柄を地面に打ち付けると立方体は音に答えた。不規則な動きで怠惰に攻め込む。  それにもかかわらず彼女は笑う。手のひらを空に向けると、頭上に出現した幾多のつららが不気味に光った。 「アンタって……本当に最高ね」  手にした鞭をふるい、怠惰も号令を響かせる。つららは重力を無視した凶悪な速度で立方体に落下する。粉々になった残骸を、怠惰の放つ螺旋状の光が蹴散らした。  十六夜は全て予想していたのか、怠惰の攻撃をたたき壊す。輝く塵が空を舞い、雨のように降り注いだ。 「うるさいな、怠惰。早く帰れよ」 「あら、折角褒めているのに」  肩を震わせ、クスクスと笑う。  剣と槍の争い音が遠のく中、目の前にある広い背中から言葉と裏腹な落ち着いた空気を感じた。 「おまえに褒められるなんて気持ち悪い」 「冷たいわね」  言葉のトーンは普通の会話。だけど行使し続ける魔法は、隙を見せれば首を取られるほどに研ぎすまされていた。怠惰が光を浴びせれば十六夜は傘を生む。眩しいアーチを十六夜が繰り出せば怠惰は指先ひとつで砕いた。  一歩も引けない、互角の戦い。  だけど、 「私、アンタが叡智で良かったと思うわ」  怠惰のほうが一枚上手なのか、執念なのか。鞭を地面に叩きつけると同時。視界を埋め尽くすほどの膨大な花びらが、自分たちをぐるりと取り囲む。  一瞬の出来事だった。  十六夜の背中から視線を外して振り返る。背後も同じ光景だった。少し後ずさりすると、あたしの背中に十六夜の背中がトンと当たった。  ――まずい。逃げ場がない。 「だから、だからこそ……大っ嫌い」  怠惰の声も僅かに聞こえた程度。音も花に遮られた。ふわふわと空中で揺れていた花びらが、同じタイミングで止まり、中心にいるあたしたちへ狙いを定める。この先の展開は、簡単に想像できた。  戦いの場で自分にできることは限られている。それでも、どう避けようか必死に策を練っていると、背中を通して一言「しゃがんで」と聞こえた。  条件反射、考えるよりも先に体が動いた。  一秒でも遅れていたら大けがをする、ギリギリのタイミング。膝を曲げきった瞬間、頭の上で空間を切り裂く音がした。続いて耳に入るのは、澄み切った杖の音色。  少しだけ間を置き、空を仰ぐ。杖へ次々と吸い寄せられる花びらが見えた。周りを囲んでいた時は隙間があったのに、今は敷き詰めるように密集して杖にまとわりついている。  いや、少し違うかもしれない。杖が花びらをわざと絡み取っているらしい。どんどん巻きつけて、大きな光の塊が作られていく。 「光栄だね。俺も同じ気持ちさ」  花びら全てを巻きつけた後、十六夜は杖を振り降ろした。塊は地面に叩きつけられると弾け、無数の蝶に化ける。その輝きは――純白。 「俺も、お前は嫌いだよ」  おびただしい量の蝶が舞う光景は圧巻。数時間前に見た花火に匹敵するほど幻想的だった。鱗粉を撒き散らし、狙うは怠惰。でも怠惰は揺るがない。  彼女が空中をひと撫ですると金色の霧が空間の切れ目から噴き出し、衝突した蝶たちを丸飲みする。彼女自身まで隠しながら、霧は急速に膨れ上がって行く。  十六夜が警戒して駆け出した矢先、霧を破って怠惰が現れる。十六夜の頬に向かって腕を突き出したけれど、彼は杖で受け止めた。 「私たち同じ気持ちじゃない。ある意味両想いね。もう少し嬉しい顔したらどうなの」  キスしそうなほど近くまで顔を寄せる。彼女の目には十六夜しか見えていないようだ。 「お前、俺を一体どうしたいんだ」  杖を握る怠惰の力が強いのか、十六夜の腕は震えていた。 「あら。ずいぶん説明してきたつもりだけど……叡智なのに意味が理解できなかったのかしら」  怠惰の手から闇が滴る。指の間からミミズのように這い出すそれは、否応無しに不快感を呼び起こす。杖を這い回り、覆っていく。 「そういう意味じゃない」  十六夜の指に触れる寸前、彼は手を離す。杖は一瞬で黒く、禍々しい色に染まった。奪われた杖は十六夜の首元を狙うけれど、間一髪。十六夜の腕によって遮られた。 「アンタがいなくなったら、私もただじゃ済まされないってこと?」 「理解した上で、か」  会話をしながらも十六夜は隙を見て足を蹴り上げ、 「侮辱する気? そのくらい理解していて当然のこと、でしょう」  彼女は見事な跳躍でかわして距離を置き、すぐさま体勢を立て直して踏み込む。かかとを鳴らして地面を蹴り、闇の杖を繰り出した。迎えるは鈍く光る銀の杖。  鈴の音と聞き間違うクリアな音が交錯――乱れた怠惰の髪が、ふわりと体に戻った。  十六夜が押されている。しかも、確実に。  嫌な汗が流れた。激突する力同士との距離は、たった数歩。だけど、あたしの元に攻撃は届かない。守ることに最適化した十六夜の意志が、そうさせるのだろう。  自分が離れれば十六夜は存分に動けるかもしれない。そう考え、怠惰に気づかれないよう注意を払って体を動かす。邪魔にならない位置に行こうと少しずつ移動した、その瞬間。見向きもしなかった怠惰の瞳が、あたしを捕らえる。深紅の唇でニヤリと笑い舌なめずりをした。それが、目の奥に焼きつく。  ぞっとして漏れてしまった、脅えた声。聞きつけた十六夜の肩がピクリと跳ねる。  一瞬。ほんの一瞬の揺らぎを怠惰は逃さなかった。  衝撃音が体を貫き、目の前の背中が消える。届いたうめき声と残像を追うと、ベンチに崩れた十六夜の姿があった。 「十六夜!」  悲鳴が喉を突き破る。  傍らに立つのは怠惰。彼女の握る杖は黒に覆われたまま赤く発光する。その光に、狂気に満ちた顔が照らし出された。 「アンタが消えてくれるなら、自分なんてどうでもいいの。だから大人しく消えて頂戴、叡智」   杖を振り上げる。十六夜はうずくまったまま。  どくん、と胸が震えた。このままじゃ十六夜が! 「十六夜!」  再度名を叫び、駆け出した。十六夜の使命も願いも置き去りにして、無我夢中にただ走る。  茶色い目が大きく見開き、足音を見つけた瞬間。あたしは彼に覆い被さった。杖の攻撃がくるだろう、その位置へ。  ごめん、あたし十六夜を助けたいけど、こんな方法しか思いつかない。  固く目をつぶり、訪れるだろう背中の痛みを覚悟した。それは、体中の神経が背中に集まっているような錯覚を起こすほどで。カタカタと、奥歯が鳴っているのにさえ全く気づかなかった。 「萱」  激痛が走るはずの背中に温かさが触れる。  ――え? 「痛く、ない」  そんなはずはない。あの怠惰が、あたしが庇ったから攻撃をしてこないなんて、考えられない。  彼の体に埋めた顔を恐る恐る上げる。ぼやけて焦点が定まらない。けれど。  異常な事態が起こっていることだけは把握できた。 「何これ」  自分の腕が淡い光に包まれている。蛍の光によく似た、息を吹きかければ瞬く間に消えそうな光の玉の密集体。奥にある肌の中からにじみ出て、ゆったりと浮かぶ。ふわり、ふわり。穏やかに上空へ流れ、そして消えて行く。  「これは……光の花!」  噴水の側から歓喜の声が届いた。十六夜に支えられて上体を起こし、声の主に視線を這わせる。邪羅さんが口を大きく開けて震えていた。 「素晴らしい。どれほど待ちわびたか、どれほど願ってきたか……!」  あたしの全身から溢れる光を、邪羅さんは恍惚とした面持ちで眺めた。頼りなく浮遊する光を指で摘もうとしたけれど、光は指をすり抜ける。どんどん湧き出る光に手のひらをかざし、彼の体をすり抜ける様を楽しんでいるように見える。  呼びかけても反応しない。彼の目には、あたしも十六夜も映っていないんじゃないか、そう思うほうが自然な気がする。それほど魅入っている。  いつもの冷静さが完全に失われていた。 「光の、花」  小さな光を光の花と呼んだ。自分の体から出ているのだから、どう考えてもハートに関係しているのだろうけど、それにしては様子がおかしい。困惑しているのは十六夜も同じなのか、邪羅さんを見る表情は厳しい。かける言葉を探しているのかもしれないけど、結局、凝視するだけに留まった。  場に流れる微妙な空気を察してか、邪羅さんはあたしたちと視線を合わせた後、ごまかすように手を振る。 「申し訳ございません。取り乱しました」  彼の切れ長の瞳に揺らぐ光が投影された。平然を装っている様子だけど、口元が少しだけ緩んでいる。  ハートのことは邪羅さんも知っているのに、心を奪われていた。まるで飢えた獣が肉に食らいつくような、そんな獰猛さを垣間見た気がした。  触れてはならない何か、知ると取り返しのつかない何かがそこにありそうな予感がして、心がかき乱される。  この光は、一体。 「そういうこと……!」  いつの間にか距離を取っていた怠惰の、甲高い笑い声が響く。ひとしきり笑うと、眼球をギョロリと動かして邪羅さんを睨みつけた。 「そんな陳腐な芝居して、くだらない。わかったわよ秩序。アンタがどうしてここにいるのか腑に落ちなかったけど、そういうこと!」  取り憑かれたように再び笑う。 「味方のふりしてハートを狙う……結局、叡智も萱さんも秩序の手のひらで踊っていたってこと? 上手いことやっちゃって」  怠惰は、笑顔から無表情に戻った邪羅さんを指差した。黙ったまま否定も肯定もしない邪羅さんは、ただ睨み返すだけだった。笑い声も引いて、空気は完全に硬直する。  さっきの嫌な予感。邪羅さんの目。言動。全てが怠惰の台詞によって肯定されてしまった。呆然と見つめるしかなかった。  どうして。どうして否定しないの。  声に出したいのに――怖い。不安に押しつぶされそうで、思わず十六夜の服を握りしめた。その間も光は全身から溢れ続ける。漂う光を辿って、十六夜の顔を伺った瞬間。 「全く……そんな浅い考え方しか思いつかないなんて。さすがは『怠惰』と言ったところでしょうか」   固く閉ざされた邪羅さんの口が開かれた。引っ掛かる物言いに、怠惰の声が少し低くなる。 「何が言いたいの」 「僕は光の花を見にきたんです」  不適に言い切った。槍を握りなおして、切っ先を怠惰へ向ける。 「見にきた? そんな馬鹿らしい理由が通用すると思っているの?」  確信を突いていたつもりが、あっさり切り返される。怠惰の顔から焦りが見て取れた。彼女は両手を突き出して雷のような光を生み出し、邪羅さんを狙う。だけど、邪羅さんは槍で一突きするだけで、それを切り伏せた。 「光の花が何たるかはあなたもご存知でしょう? 根源であり元首。そんなハートとの絆を見たいと思う感情が不自然だというなら、一体何が自然だって言うんです」  目障りですと言い捨て、邪羅さんは大地を蹴る。まっすぐ怠惰に向かって駆け出した。彼女は少し身を引くも、魔法で応戦。槍と魔法の戦いがはじまった。  光が弾けて槍が荒れ狂う。動揺している怠惰の分が悪いのか、衝突音が次第に遠ざかった。静けさが戻るこの場所に残ったのは、あたしと十六夜だけ。  発光する手のひらをぼんやり眺める。  邪羅さんは、十六夜がおかしくなった時も手を取って道を示してくれた。魁に襲われそうになった時も、助けてくれた。 「邪羅さんがここにいるのって、ハートを回収するためじゃないの。違うの?」  改めて問う。  正直なところ、ハートを連れ戻すために来たと。本人に聞いたことはなかったけれど、そうだと信じ込んでいた。 「請け負ったのは俺だけだ。邪羅との共同任務なら、予め知らされているはず」 「理由は十六夜も知らないってこと?」  十六夜は無言で頷いた。  邪羅さんが光の花と呼ぶ粒子がどんどん浮いて行く。手のひらから抜けて昇り、肩の高さに辿り着いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。全ての光が停止して点滅し始める。  今までと動きが違う。  理由はすぐにわかった。背中が、その気配をかすかに感じ取ったか