Fiori di Luce 〜光の花束〜 記憶の欠片  誰にだって大切な日常がある。まだ十五年しか生きていない若造だけれど、あたしにだって日常は存在する。特に朝は毎日同じで、目覚まし時計の音に五分だけ遅刻することから一日が始まっていく。  物心ついた頃から変えていないショートヘアーに、寝癖はないかと鏡を眺める。着替えもそこそこに、女子アナがはしゃぐ朝のテレビ番組を横目で見ながら、自分でトーストしたパンを口に詰め込んで、学校へ行く準備を整える。親から叩き込まれた『挨拶はしっかり』の教訓は守りつつ、自転車にまたがって学校へ向かい、教室のど真ん中に位置する自分の席へ着く。そして、朝のホームルームまで隣の席に座る友達と何気ない会話をする。  これが朝の日課であり、あたしの日常だ。女子高生という身分から考えて、きわめて妥当な流れだと思う。  日常に重要なのは変わらないこと。『友達と会話をする』までがワンセットで、ここまでこなさないと日常にはならない。  だから……今の状況は、日常とは言いがたかった。 「それはないって! 可愛いヤツだなぁオイ」  昨日までの鬱陶しい天気を吹き飛ばしたような五月晴れの朝。自分の机に鞄を置いた矢先、隣の席から笑い声が届いた。耳を通り抜けて行ったその声は、鞄を開けて教科書を掴んだ直後にすわり心地の悪いものへと変わる。  男の子の声?  聞こえてこなきゃいけないのは女の子の声のはずだ。なぜならその席は、高校へ入学してすぐに意気投合した女友達の席だから。  彼女以外の人が座っているのか、と視線を這わした、その瞬間。あたしは自分の目を疑った。  廊下の窓から教室を覗く男子生徒。朝から熱心に宿題を写している女子生徒。  そんな、いつもと変わらない風景に紛れ込む……違和感。  クラスメートと話しながら全身を震わせるように笑っている男の子が、そこに座っている。  ――誰――この人。 「変じゃねーし、笑うとこでもねーし」  数人の生徒が机を囲み、話に花を咲かせていた。照れながら抵抗したのは、当然だけど知った顔。それどころか、周りにいるのは一緒に授業を受けているクラスメートばかりだ。ただひとり、座って頬杖をついている男の子を除いては。  机の上に鞄を置いたまま硬直していると、視線に気づいたのか緩みきった顔があたしに向けられた。 「萱《かや》聞いた?」  名前を呼ばれた。  親しくないどころか、顔も名前も知らない人に呼ばれた。  どうしてあたしを知っているの? 何で?  激しい不快感が体を襲う。頭が、今の状況に追いつかない。追いつくことを拒む。  ところがこの人は、動揺しているあたしの心境を掴めていないのか、 「こいつガチ天然。ウケるわーマジ腹痛ぇ」  そう言って、お腹を抱えて笑う。 「ありえねぇ!」  涙すら浮かべている。  いや、それはあたしのセリフ……と言いたいけれど声が出ない。顔がひきつってしまう。  とりあえず落ち着こう。落ち着けあたし。  視線を外して周りを見渡した。昨日までそこに座っていた、席の主を探すためだ。  シャンプーのCMに出てきそうな黒髪ロングヘアーを探す――いた。一番後ろの席で漫画を机に並べて読みふけっている。紙パックジュースを握りしめる読書体勢を見る限り、他人の席を間借りしているとは考えにくい。  つまり彼女の席は後ろ。隣の席はこの人。雰囲気から察するに、それが正解なんだろう。だけど、自分の記憶と大きく矛盾している。あたしはこんな人知らないし、昨日までその席は彼女のものだった。  何が起きているの? 「本当に可愛いなぁお前。見た目とのギャップがたまんねぇ!」  耳と傾けると、どうやら昨夜のドラマの話をしているらしい。からかわれた男の子はドラマを見て号泣したと。そんな話で賑わっているけれど、あたしはそれどころじゃない。  ひたすら騒がしい隣の男を改めて観察してみる。開いた窓から風が吹き抜けるたびに、明るく長い髪が流れた。  そう、何よりも目立つ特徴は、男の人にしては長すぎる茶髪。似合っているか似合っていないかは別として、セミロングの茶髪男なんて一目で覚える自信がある。  ……転校生?  そんなことを思ったけれど、一瞬でその案は崩れた。  転校生ならここまでクラスに馴染んでいないはず。こいつが人見知りしない性格だったとしても、この空気感は異常だ。ありえない。  そもそも、転校生ならホームルームで先生から紹介受けるのが普通だ。入学してから今日まであたしは皆勤賞だから、休んでいるうちに来た可能性はない。  となれば、次に出てくるのは夢かということ。  手のひらをこっそり爪で強くつまんでみた。痛いだけで夢から覚める兆候は見られない。  じゃあ次は……と、椅子に座ることさえ忘れて考え込むあたしを不信に思ったのか、明るい髪を跳ねさせ心配そうな声で覗き込んできた。 「萱? どうした?」  吐息が触れそうな近距離で、モデル並みの綺麗な顔が突然ドアップになる。長い睫毛にしばらく見とれて数秒後。脳みそが火を噴いてオーバーヒートした。  その近さや知らない人という条件だからか、体は近寄ってほしくないと拒絶を示す。  腕を伸ばして体を離そうとした瞬間。ガシャーン! と派手な音。  教室が一瞬にして静まり返った。 「え?」  しっかり閉じていたまぶたを開き、音の元を確認する。  見えたのは上履きの裏とぐちゃぐちゃになった椅子に倒れこんだ体……男の子が椅子ともみくちゃになっていた。  あたし……もしかして突き飛ばした!?  この際、知ってる人とか知らない人とかは関係ない。自分が突き飛ばしたという自覚はなかったけれど、椅子に埋もれたのは事実だ。 「ごめん! 大丈夫!?」  一緒に騒いでいたクラスメートが唖然としていた。他の人たちの視線も体に突き刺さってくる。もちろん、気にしているわけにいかない。埋まった体を救済して手を差しのべたけれど、あたしの手を一瞬見ただけで取ろうとはしなかった。  腰をさすりながら自力で起き上がる。 「ごめんね」  行き場のない手をパチンとあわせ、立ち上がった男の子に再度謝った。  制服の上着を脱いでTシャツ一枚になり、腕の隅々をチェックしている。ひじの周りが僅かに赤い。 「萱ちゃぁん。ひっどいなぁ」 「怪我してない?」 「大丈夫だけどさ。傷でもついたらどうすんの? お嫁にいけなくなっちゃうじゃない」  体中をさすりながら軽い口調で返事をしてきた。面白くなかったけれど、ダメージがあまりなさそうな様子にほっとして、思わず笑みが溢れた。 「どこも怪我してなさそうだね」  そんなあたしを見て彼は瞬きしたのち、何やら含んだ笑みを浮かべる。 「……なんなら確かめてみる?」  試すように、そう言った。 「へっ?」とまぬけな声が出た一瞬の間。  彼は着ていたTシャツを脱ぎ捨てた。ほどよく引き締まった色素の薄い素肌が目の前に現れる。 「俺の美肌。守られてる?」  唖然。呆然。そんな言葉が相応しい。  突然の出来事に開いた口が塞がらなかった。  女の子たちの黄色い叫び声をよそに、妙なポーズを決め続けていて。  何なんだこいつ。  何なんだこの変態。  こんなヤツ、あたしは知るかーーー!  昼休みまで先生に聞いてみたり周りの様子を伺ってみたりして調べてみた。馬鹿みたいに明るいヤツだと、誰もが口を揃えて言っていたけれど、あたしが求めている『不審人物』という声は返ってこなかった。  むしろ不審な点はゼロ。普通に入学して普通に授業を受けている高校生という印象のみ。  反対にこちらが怪しがられた。何血迷ったことを言っているのか、毎日漫才みたいな会話していたのに喧嘩でもしたのか、と。  要するに、あたし以外は彼のことを知っているらしい。  とりあえず収集できたのは名前。蘇芳 十六夜《すおう いざよい》……全然ピンとこない。 「アンタ達どうしたの? 喧嘩でもしたの?」  同じクラスの――本来、あたしの隣に座っていなきゃいけないはずの女友達、常磐 撫子《ときわ なでしこ》もこんな様子だ。  お昼の構内放送でアイドルグループの明るい曲が流れている。いつも適当に聞き流していたのに、今日はひどく鬱陶しい。  空になったお弁当箱を包み、残ったお茶を一気に口へ流し込んでから、 「目の前で突然裸になる知り合いなんていない」  キッパリと言った。  他の人には濁したけれど、彼女には隠したくなかった。あくまであたしは正しいのだと主張したかった。  撫子は長い髪をかきあげながら、マーブルチョコの筒を差し出す。手を広げると赤色と黄色のチョコが出た。 「あれは確かにビックリしたけど、ヤツっぽいじゃない。それにプールで裸くらい見るだろうし平気でしょ?」 「裸に免疫があるかどうかじゃなくて、裸になったこと自体が問題なの!」  イライラしながらチョコを口へ放り込む。甘いカカオの香りが広がったところで、論点が違うことに気づいた。 「違う! 裸じゃなくて、覚えてないのが嫌なの……あたし、どうしちゃったんだろう」 「記憶喪失だ、とでも言いたいの?」  それは、あたしも同じことを考えた。  ここまでくると、あの人は始めから隣にいたと思うしかない。どれだけ癪にさわっても理不尽に感じても、一番すっきりする答えがそれだから。  だけど、何故忘れてしまったのかという問題が浮上する。  まさか隣の人を忘れるわけはないし、同じクラスになってから数ヶ月一緒に過ごした人でもある。だから記憶喪失を疑った。 「仮に記憶喪失だとしてもさ、あのバカのことだけ綺麗に忘れたってこと?」 「そう。それなんだよね」  撫子は指にくるくると髪の毛を巻きつけながら、あたしも思いついたことを口にした。  記憶喪失のイメージは、生まれてから今日までの記憶が消えさるといった、ドラマや漫画でよく見るものだ。自分の症状とは大きく異なる。 「それとも、忘れたと思い込みたくなるほど嫌なこと言われたってわけ?」 「え?」 「あたしだって、アンタとアイツが仲良く漫談してるのを見てきたんだから。それが突然知らない、なんて大騒ぎするんだから、派手に喧嘩したって思っても当然じゃない?」 「…………」 「話す気ないの? 何があったのか」  黙り込んだまま残りのチョコにかじりついた。甘いはずなのに苦い。 「強情ねぇ……ま、生肌が間近で見れるだけでお得だと思うけど」  諦めの溜め息と共にサラリと変な事を言ってのけた。十六夜に劣らない大きな瞳が、にこやかに笑う。  このお姉さんはときどき変な事を言う。何がどうお得なのか、よくわからない。 「このエロスが」  口の中に残った香りと味の余韻を貪って否定すると、 「エロスはいいぞ。エロスは」  ――背後から、会話に割り込んできた馴染みのない声。  振り返らなくても誰かわかる。出たな蘇芳十六夜。 「今朝はどうもゴチソーサマ」  撫子が手を振りながら礼を伝えた。たぶん生肌の件だろう。 「あらん。チップでも貰えばよかった?」  オカマっぽい声で答える蘇芳十六夜。  どれだけ評判が良くてもどれだけ顔が良くても、絶対に顔を合わせたくなかった。謎が残っている限り、あたしにとってこの人は不審者なんだ。  俯いたままやり過ごそうと決め込むと、引きずった上履きの音が机のすぐそばで止まった。机の脇に見える、大きな上履きと足。 「チップ変わりにチョコでどう? 弾んじゃうよ」 「いいねぇ。頂戴」 「ほら、アンタもヘソ曲げてないで、チョコ食べな」  促されて顔を上げずに手だけ差し出す。溜め息と共に手に固いものが乗る感触がした。  ひとつずつ摘みながら音を立てて噛みしめる。 「萱ったら、蘇芳のこと知らない、なんて言うのよ?」  頑なに顔を上げないあたしに変わって状況を説明する撫子。彼女の中では喧嘩の延長で意地を張ってるように見えているらしい。  どうしてこんなことになったんだろう。どうしてあたしだけ知らないんだろう。  昨日までこんな人いなかった。ケンカなんてやりようがないのに、友達にまで酷いと言われる。普通に謳歌していた高校生活が、日常が、崩れていこうとしている。  この男の手によって。 「そんな風に言ってたんだ」  頭の上でカラカラとチョコレートの流れる音が聞こえた。ヤツの手に報酬が渡されたんだろう、かじる音も聞こえる。  もう他の人に聞く考えは残っていなかった。教えてくれそうな人はひとりだけ。  無意識のうちに手を握りしめていた。指を解くと爪が手のひらにめり込んだ痕があった。  思い切り強く握るほど悔しい思いをしているのに、体は言うことを聞かない。知りたい気持ちと知りたくない気持ちがぐちゃぐちゃと混ざり合って息ばかり詰まる。 「アンタ一体何したのよ」 「……しいて言うなら不法侵入ってとこかな」 「ハァ? アンタ夜這いでもしたの?」  ニヤついた声の撫子に、筒で頭のてっぺんを突かれた。視界に余計なものを入れないよう、細心の注意を払って撫子を見る。予想通りニヤついていた。 「俺、こう見えても純情少年だからそんな邪道な道は選びませんよ。まずはほっぺにチューから」 「あら、お手て繋いでからじゃないのね」 「じゃあ、落とした消しゴムに手と手が触れ合うことから」 「何の話だ何の!」  訳のわからん話に、思わず顔を上げてツッコミを入れてしまった。  やたらと存在を主張する、大きな茶色い瞳とバッチリ目が合うと、 「やっと顔上げたな」  そう言って、人差し指でおでこを突いてきた。  痛っと身を反らせるあたしの反応が面白かったのか、大きな口で屈託なく笑う。ちょっとクセのある長い髪が、体と一緒に揺れた。  そして、 「謝罪ついでにオゴるからさ、今日の放課後つき合ってよ。行きたいところあるんだ」  なんてことを提案してきた。意味不明も甚だしい。  どうしてわざわざ放課後を選ぶのか。謝るなら今だって十分可能じゃないか。  撫子が自分たちを交互に見ながらやりとりを楽しげに眺めている中、正直な気持ちを乗せて軽く睨みつけてみると……何か含んだような笑みが返ってきた。  喉元を冷たいものが通り抜ける。  ……まさか。あたしが何も知らないことに気づいている?  気味の悪さが一層増した。  あたしだけが知らないのって――もしかしてわざと? 「いつになったら目的地に着くのでしょうか?」  放課後。  刑事に連行される犯人の如く、街に繰り出された。腕を掴まれながら歩く体勢でも、問うべき問いは浴びせかけたけれど、一向に答えてくれなかった。  行きたいところに行ったら答える、との返事だけ。  大人しくついていくから腕を離してくれと訴え、ふたり並んで街を歩いた。  本当に大人しくついていったけれど、内容が凄かった。呆れ返ると言ったほうがいいかもしれない。  ゲームセンターでストラップ取るのに必死になったり、パチンコがやりたいと店に入ろうとしてあたしに止められたり、イチゴぎっしりのパフェを恍惚の表情で頼んでおきながら、最後まで食べきれない、としょぼくれたり。  これじゃただの放課後デートじゃないか、と思った。  人生初のデートが……こんなのって……。  溜め息しか出ない。見た目は良いから悪い気はしないけれど、納得するわけにいかない。  街を散々歩き回った結果、あたしの体力は底をついていた。消費なんて生易しいレベルじゃない。ごっそりと根こそぎ削り取られた。腕や腰や脚……体中の関節が目に見えて鈍りだしたので、駅に隣接された公園でひと休みすることにした。  この辺りでは最も大きな公園で、市民プールや大きな遊具も揃っていて、ちょっとしたレジャー施設となっている。噴水も設置されているので、あと数ヶ月もすれば子供たちの賑やかな声が聞こえてくるのだろう。  学校の鞄を抱きかかえて噴水のふちに座り込んだ。この時ばかりは噴水のふちが神々しく見えた。目の前に公園を作ってくれた人がいたら、抱きついて感謝したに違いない。  ぐったりしたあたしとは対照的に、隣に座ったヤツはといえば、 「いやぁ、楽しかった楽しかった」  気持ちよさそうに背伸びをして満足度100%の笑顔を浮かべていた。  バケモノかって。  ツッコむ気すら起きない。  空を仰ぐとオレンジ色と藍色が綺麗に混じっていた。梅雨入りしたての季節にしては気持ちの良い快晴で、初夏の近さを匂わせる。背中に位置した太陽が、噴水と重なったあたしたちの影をコンクリートに長く伸ばした。  見渡せば、ランドセルを背負った子供たちがスズメを追い掛け回していたりして。  こういうのを平和って言うんだよな、としみじみ思った。もちろん『あたし以外は』という注釈をつける必要はあるのだけど。  疲れを少しでも払いたくてヤツと同じように背伸びをしたら、近くを通りかかったトイプードルが靴を嗅ぎにやってきた。多分、毎日の散歩コースなんだろう。  猫より犬派なので凄く撫で回したいのだけど、そんな余裕すらなかったので眺めていたら、まだまだ体力ありそうな隣の男がトイプードルに反応した。  即座にしゃがみ込む様子といったら、どこのチビッ子かと問いたいくらい。宝物でも見つけたかのように瞳をキラキラさせると、 「モフってもいいですか?」  瞳のキラキラを顔中に引き延ばして聞いていた。  飼い主のおばさまは、若い男の子かつイケメンというダブルパンチ効果からか、目じりのシワをさらに深くして、どうぞと促す。ヤツは許可を得てすぐさま、骨張った手を伸ばして撫でた。そして、カールの毛がより絡まるんじゃないかと心配になるほどトイプードルをこねくり回しだす。やわらかそうな彼(彼女?)も満更ではなさそう、短い尻尾を千切れそうなくらい振って、ヤツの体にまとわりついていた。  ……正直なところ、あたしはどっちも犬に見える。たまたま人間の形をしているだけで、お尻には透明な尻尾がついてるんだ。特別な眼鏡を通せば、せわしなく動く尻尾が確認できるだろう。くすぐったい、と顔中ベロベロに舐められ、ひとりのくせに賑やかで。  そんな光景を微笑ましく見ている自分にがいた。  はっとした時には、もう遅く。  あれだけ苛立っていた自分自身の変わりっぷりと、犬を抱き上げて『高い高い』する柔らかなひとコマが相まって、おかしくておかしくて。こみ上げてくるものに耐えきれず、とうとう吹き出してしまった。 「お。やっと笑ったな」  昼間も聞いたようなセリフに、そう言えばと思い起こせば……今日は全然笑っていなかった気がする。  それもこれもアンタが原因だ、と心で悪態をつきつつ、あたしはそのまま笑い続けた。  胡散臭いことに変わりはないんだけどね。  じゃあねー、とふたり並んでお犬様を見送った。  辺りはすっかり暗くなり、小学生たちの姿は既になかった。というより、居座っているのはあたしたちくらいだ。  周りの人は帰り道として足早に公園を通り過ぎるだけのよう。 「……結局目的地はどこだったの? まさか全部?」  ようやく体力も戻ってきたので、立ったまま疑問をぶつける。ほんの少しだけ、警戒心は溶けていた。  ふちに座り直した彼が数度瞬く。噴水の底に沈んだコインが、点きたての外灯を反射してキラキラと眩しい。 「そう。全部」  フチをしっかりと持ちながら体を大きく反らせた。  本当にこの人、落ち着きがない。 「ただ遊びたかったってこと?」 「そう。遊びたかっただけ」  言葉を繰り返す。遊ぶことに夢中で、あまり話を聞いていないようだ。一日しかつき合いがないけれど、気が散りやすい人というのは学習した。  背を反らせたまま脚をピンと伸ばしてバランスを取る。「危ねー」とか言いながら水面ギリギリまで傾く体を楽しんでいた。当然ながら押したい衝動にかられるけれど、ぐっと我慢しておいた。  ここで機嫌悪くされても困るから。あたしの目的は遊ぶことじゃない。 「……蘇芳十六夜」  コホンとわざとらしく咳払いをして呼びかけてみると、ヤツは反動をつけて勢い良く体を起こし、首を傾げた。 「フルネーム呼びですか」 「あたしアンタのこと全然知らないもん」 「冷たいねぇ」 「当たり前でしょ。だって事実だし」  そうだ。そもそも、あたしはみんなと違うことを把握しているのにどうして教えようとしてくれないのか。  話すと都合が悪いのだとしても、こちらは立派な当事者。聞く権利があるのだから洗いざらい話してくれたっていいじゃないか。  ……何だか無性に腹が立ってきた。 「アンタ一体何者? 何がしたいの?」  少しイライラしながら詰め寄ると、ヤツは後ろ髪を触りながら遠くを見つめた。どうやら調子に乗りすぎたらしい。遠巻きながら、毛先が濡れているのがわかった。  虫を呼び寄せる電柱をぼんやり眺めたあと、何を口にするかと思えば、 「フルネームじゃなくて名前で呼んで」  人差し指をぴっと立てて指差した。  あたしが盛大な溜め息を吐いたのは言うまでもない。 「十六夜」 「はいはい」 「何であたしだけ知らないの? アンタのこと」 「どうしてだと思う?」 「だから、それが聞きたいんだって!」  マジメに答えてよねー!  学校でもそうだ。この人飄々としていて掴み所がない。こっちが遊ばれている気がしてならない。  憤るあたしを無視して「そうだ」と手を打ち、ズボンのポケットを探り始める。  おもむろに立ち上がり、これあげると目の前に握り拳を見せた。反射的に両手を差し出すと、何かが落ちてきた。 「今日の戦利品」  ハート型の飾りがついたストラップだった。  ピンクの小さなストーンでデコレーションされ、携帯電話にぶら下げたらコーティングが傷ついてしまいそうなデザイン。  そういえば、ゲームセンターで百円玉を大量に注いでいた記憶がある。 「本当は月のストラップが欲しかったんだけど、そっちが取れたからあげる」 「あ……ありがとう」  ポケットに収まっていたからか、包装のビニールはくしゃくしゃ。紐の部分も少し折れ曲がっている。  つまんで目の高さまで持ち上げてみると、噴水の底のコインに負けない輝きを見せた。何度も角度を変えて光の反射を楽しんでいると、その奥で十六夜が満足そうに笑っていた。  一瞬、彼の存在を忘れていたので、大げさに手を振って取り繕うと、ヤツは足元に投げ出されたカバンを肩に掛けた。  そして、さっぱりとした表情で伸びやかに言う。 「じゃあ帰ろうか」  ――は?  目がテンになるあたしを放置して帰り支度を整える。  ……って……おぉぉぉい!  去り行くカバンを捕まえ、 「帰らせるか! 話は終わってないっての!」  必死に引っ張って、浮いた足取りを止めた。  十六夜はよろけながらも持ち堪え、振り返ってあたしの顔をニヤニヤしながら見てきた。 「今夜は帰さないって? 結構大胆だね……俺ん家近いけど来る? 歓迎す」  言わんでいい。  自分のカバンで殴りつけてヤツの話を遮る。良い音がした。 「冗談冗談。ほら、こんなに暗いしさ。明日でも明後日でも、時間はたーっぷりあるんだから、焦らなくていいって」 「納得いかないんだけど」 「いいからいいから。ささ、帰りますよ」  そう言って、そそくさと帰りやがった。呆然とするあたしを置いてけぼりにして。 「もう駄目。無理です。ギブアップです。ごめんなさい」  あたしは教科書に顔をつっぷしながら降参した。 「諦める? あたしは止めはしないけど」  自主性を重んじるという名の放置で、撫子はケーキをつつきながら小説を読んでいる。  高校の数学は難しい……難しすぎる。まぁ、算数から数学へと名前を変えてから、まともに解けた試しがなかったりもする。  学生の本分は勉学という言い分はわかるけれど、中間テストと期末テストがあるのだから必要以上に学力をチェックしなくてもいいと思う。というか、やめてください。  ……とはいえ、どれだけ駄々をこねたって、小テストはにじり寄るだけなので、頭のいい撫子様にご教授願うべく頼み込んだわけだ。  その変わり奢る約束をさせられてしまったので、この雨の中、いたしかたなくファミレスに集まって勉強会をしている。 「なんでそんな簡単に理解できんの?」 「ルールを覚えるだけよ。xだyだって考えるから難しいんじゃない。全部バケツAバケツBって考えればわかるでしょ」  わかりません。 「十六夜わかる? バケツ理論」  隣で同じように勉強している十六夜に声をかけた。  長い髪の毛をひとつにまとめて、一見すると気合いが入っているように見えるけれど、シャーペンの進みは悪い。  だから、返ってくる答えは多分……。 「ん。さっぱわからん」  やっぱり。 「アンタたち、よくそれでうちの高校入れたね」 「先生につきっきりで教えてもらったんですー。そんなことはいいからさ、この問三教えて」  氷が溶け、ずいぶん薄まったオレンジジュースをひと口含んで問いかけると、 「俺そこできたよ」 「マジ? どうやんの」  途中の式をひとつずつ説明してもらいながら、ふと、数日前のことを思い出していた。  あの日以来、何も変わることなく時間が過ぎていった。そして、十六夜から詳しい話を聞かされることもなかった。  隣の席という条件や彼自身の人懐っこい性格もあり、気がつけば普段以上に充実した学校生活を送っていた。  一緒にいるだけで楽しい。突然現れた知らない人という薄気味悪さは、どんどん胸の奥へ追いやられていった。割と静かだった景色なのに、視界の片隅に十六夜が映り込むだけで、賑やかで騒がしい日々へあっという間に塗り替わった。それが嬉しくて……何ともくすぐったい。  今のところ、何が起こったかと言えばこいつに関する記憶がすっぽり抜け落ちているだけ。生活に支障があるわけじゃない。  記憶喪失の線は消えている。十六夜はあたしが覚えていないことを知っているからだ。  結局のところ、あたしの身に何が起こったのだろう。あたしだけ忘れさせられたってこと?  催眠術じゃあるまいし。 「…………」  パズルのピースがぱちりとはまるような感覚があった。  ――催眠術。  どうして思いつかなかったのだろう。  あたしだけ知らないこと。十六夜はその事実を把握していること。  様々な条件を踏まえると何もかもに合点がいく。 「……萱。聞いてないだろ」  眉間にシャーペンのお尻をグリグリ押しつけられて我に返った。  顔を上げると、呆れたような視線とぶつかった。 「ごめん。何も聞いてなかった」  視線をノートに落とすと、いつの間にか角ばった文字で丁寧に解答されている。目でなぞらえてみるものの、いまいち理解できない。というか他のことがいっぱいで文字が頭を素通りする。  あたしが飲み込めていないのに気づいてか、十六夜は再びペンを走らせた。 「ここのxが17ってことは、ここも同じことが言え……る」  十六夜が途中の式を書いている最中、同じページにあたしも書きこんだ。 『催眠術でも使って、あたしの記憶奪ったの?』  撫子が目の前にいるので口には出せない。でも、思いついたことを話してすっきりしたかった。  催眠術。  あたしがかけられているのか、他のみんながかけられているのか。  二択ではあるけれど、恐らくあたしだけが術にかかっている。だって、あたしひとりと他のみんなじゃ、労力が違いすぎる。  十六夜はあたしを横目でチラッと見た後、書き込みの下に何か追加した。 『(`・ω・)』 「わかるかっ!」  何で顔文字! しかも『正解』なのか『不正解』のかどっちだ!  あたしの反応に満足したのか、笑いを殺しながら続きを書き込む。 『(`・ω・)NO!』 「……外れってことか」 「残念でした」 『ヒントくれ!』 『なし! いつか話す!』  いつかっていつだ。  口から出かけたけど無理に飲み込んだ。そっと撫子の表情を伺うと、すでにケーキを食べ終わっていて、ファミレスのメニューを真剣に睨みながら吟味していた。あとどのくらい食べる気なんだろうか。  財布の中身が頭で数える。絶対十六夜にも払わせてやる。  今度は恨みがましい視線を込めて十六夜に目をやった。あたしとのやり取りを大雑把に消して、勉強の続きに取りかかろうとしていた。  その時。  文字を書きかけたペンが止まった。窓の外を眺めている。  何か探しているような素振りにあたしと撫子も釣られて外を見たけれど、傘を差す人々が街を行き交うだけで他には何もなかった。 「誰かいた?」 「ごめんごめん、外じゃなかった」  苦笑いしながら窓際と反対の方向を指したので、あたしと撫子は同時に店内へ顔を向ける。  うちの高校とは違う灰色の制服を着込んだ人が、忙しそうに働くウェイトレスさんに促されて自分たちのテーブルへ近づいていた。  赤茶けた髪にキレ長の目をした男の子。  彼はこちらを見つけるなり、にこやかに手を振った。 「十六夜さん、探しましたよ。こっちくる時は声かけてくれれば良かったのに」  どうやら十六夜の知り合いらしい。 「誰?」 「溝萩 邪羅《みぞはぎ じゃら》と申します。よろしくどうぞ」  丁寧な声色ではじめまして、と握手を求めてきた。差し出された手をそのままにさせるわけにいかないので手を重ねる。十六夜は、その光景を見て不思議そうに呟いた。 「何でこんなとこにいんの?」 「だから、探してたんですよ。電話したんですから」  咎める口調に、十六夜は隣に置いたカバンから携帯を取り出して確認すると呆れたように邪羅さんを睨んだ。  この人と約束でもしていたのかな。 「無理についてこなくても良かったのに」 「いや、大丈夫」  そうは言っても。  どうしようかと撫子に同意を求めると、紅茶を一気に飲み干して追撃。 「探してたみたいじゃない。行けば?」 「俺もテストどうにかしたいんだからさ……ふたりして追い出そうとしないでよ……傷つくって」  湿り気を帯びた窓枠にしなだれかかった。 「僕も話はあるのですが、切羽詰まっているわけじゃないので、そちらを優先していただいて結構ですよ」  申し訳なさそうに邪羅さんが手を振ると、十六夜が何か思いついたように手を叩いた。 「お前数学わかる? 確か……得意だよな。もうすぐテストなんだ」 「テスト?」 「そう、テスト」  十六夜がノートを彼に持たせると、何も言わず中身に目を走らせた。  周りの喧騒を遮断するように、紙の擦れる音がテーブルを包み込む。 「……教科書のどの部分が試験に出るんです?」 「最初から31ページ」  ノートをひとしきり読んだ後、邪羅さんは撫子の前にある教科書を指差した。 「その教科書……ちょっと貸していただきたいんですが」  撫子が手渡すと、パラパラと本当に読んいでるのか怪しいスピードでめくっていく。  立ちつくしたままの彼の背後で、伝票を持った学生が通り過ぎた。軽くぶつかってしまい、邪羅さんは頭を下げる。その様子を見て、撫子は席をポンポン叩いて手招きした。 「あたしの隣座れば?」  同時に、テーブルに備えつけた呼び鈴で店員さんを呼ぶ。 「十六夜が奢ってくれるよ」  十六夜に聞こえるように、わざと大きめに言った。邪羅さんは微笑みながら、それに乗っかる。 「それじゃあ、お言葉に甘えてお邪魔します。一度でいいからプリンパフェ食べたかったんですよね」 「いや……だから……どうして俺をのけ者にして進めるかな……アタシ本気でイジけちゃおうかしら」  氷しか残ってないグラスを突きながら妙に麗しげに呟く。  それにしても、デジャブと言うか何と言うか。少し前に、雑誌の切りぬきを握りしめた十六夜と巨大パフェ食べたばかりだ。どこかでパフェ特集でもしたのかな?  そんなことを考えていると、ハイトーンボイスのウェイトレスさんが注文表を持ってやってきた。 「今日は助かっちゃった。ありがとうって言っておいて」  店を出て、帰る方向が一緒だという撫子・邪羅さん組と別れたあと、改めて十六夜にお礼を伝えた。  幸いなことに雨は止んだが、遅くなるまでやりこんでしまい、もう夕方だ。  それにしても……彼の解説は凄かった。入学してから数ヶ月分の数学なら楽勝ですよ、と基礎の基礎まで叩き込んでいった。撫子のバケツ理論も比喩としては良いものだけど、そこに至るまでの過程を理解していないあたしたちには難しいんじゃないか、とアドバイスしていた。  どんな理由を元に公式が出来上がったかを説明する。理解が追いつかなかったところは、例え話を用いたり図で描いたりした。とにかく見事な手腕で、ひと通り学習した後は、数学の問題が気味悪いぐらい簡単に感じた。  世の中には凄い人がいるんだなぁ……と感心。博識というのは、きっと邪羅さんみたいな人を差すのだろう。  鞄から携帯を取り出す。ハートのストラップが揺れて外灯を反射させたところで、はたと気づいた。 「そういえばさ。邪羅さん、十六夜に話あったみたいだけど……良かったの?」  隣を歩く十六夜の顔を覗き込む。  勉強に専念しすぎて、忘れていた。  どうやら十六夜もあたしと同じく忘れていたようで、足を止めて目を泳がせたけれど、 「後で電話しとくよ」  そう言って、再びあたしの横に並び、同じ歩幅で歩き出す。  ひしめき合う路駐自転車を避けながら、他愛ない会話を交わす。赤く染まった空を水たまりが反射する。傘でひとつひとつ突きながら進んで行くと、数日前に彼を問い詰めた公園に差し掛かった。  帰る方向は、ここで二手に分かれる。 「じゃあね。また明日」  十六夜に向き直り手を振った。  すると、 「……あのさ。萱」  絞り出すような声で呼び止められる。  頼りない外灯が彼を照らし前髪が顔に影を落とす。雨を予言する風が、ふたりの間を吹き抜けた。 「何?」 「あ……いや。やっぱりいい。明日学校で」  躊躇いを含んだ声。何を言おうとしたのか。  黙ったままじっと見つめてみたけれど、彼は目を合わせようとしない。  諦めて手を振り「またね」と声を掛け、その場を離れた。しばらくして公園を抜けた路地に出ると、遠い、背中の遠く向こうから大きな声で名前を呼ばれた。  振り返ると、走ってきたのだろう、十六夜が肩を震わせながら何か言おうと口をパクパクしている。  だけど、何を言ってるか全然わからない。 「何? 聞こえない!」  帰宅中のサラリーマンとすれ違いながら、十六夜の方へ一歩踏み出す。  その瞬間。  耳鳴りに似た高音が空気を震わせた。  ……え?  耳を塞いでも鳴り止まない。頭に響く。  十六夜を見ると、大きな目をもっと大きく見開いて、駆け出している。  ――そして。  足元から突然の閃光。目を眩ませる光が噴き出し全身に浴びた。  喉を引き裂くような悲鳴と共に、体がぐらりと揺れた。立って、いられない。  意識が途切れる直前。  微かに聞こえたのは、はち切れるように名前を叫ぶ心地の良い声だった。  あ。あたし泣いてる。  そう気づいたのは、まだ見慣れない背中が目に入った時だった。  どうやら気を失って倒れたようで、背中どころかあちこちが痛む。頬に伝う涙を拭いながら、背中に固い感触を感じて体を起こした。  さっきの光は何だったのだろう。辺りを見渡したけれど、別段おかしな様子はなかった。  だけどぐるりと周囲を伺って、異変を感じた。  風景は同じだ。先ほどすれ違ったサラリーマンも同じ。だけど――止まっている。携帯電話の画面を見ながら、足を浮かせて停止していた。 「何……これ」  目を凝らして噴水を見た。水しぶきが……まるでシャボン玉のように、地面に落ちることなく漂っている。 「え……?」  車も、虫も、樹も。  目に映る、動くであろうものが、全て動かなくなっていた。  慌てて鞄をあさり携帯電話を探す。夢中で開く。時間を確認する。  ――18時32分……それ以上は、動かない。  止まっている。 「十六夜?」  震える声を抑えきらないまま、恐る恐る声をかけた。返事をして欲しかった。こんなわけのわからない状態に、ひとりではいたくなかった。  十六夜は、微かに肩を揺らせる。動いた。  ひとりじゃない、と安堵したのも束の間。彼は振り返りもせず肩越しに厳しい声で答えた。 「萱。話は後だ。そこを、絶対に動くな」  十六夜の周りの空気が尋常じゃないほど張りつめているのがわかった。  彼は何を睨んでいるのだろう、と、立ち上がって視線を追った――その瞬間。背中にぞっとするような悪寒が走った。  視界には何も映らなかった。止まった公園の風景だけ。さらに、あたしは霊感だとか超能力だとか、そういった類いの不思議な力は持っていない。  だけど、誰かが……あたしの中の誰かが、強い強い警告を発していた。  十六夜の視線の先に何か、いる。 「ふざけんじゃねぇよ、何なんだよこれ」  心臓があたしに訴える。 「だめ……十六夜……ここにいちゃだめ! 危ない!」  腕を必死に掴んだ。  そして。  それから見た景色を、あたしは一生忘れることができないだろう。  遥か彼方――。  遠い空の向こう、十六夜が睨みつけていた空から、ロケット花火に似た幾千もの光があたしたちに向かって襲ってきた。十六夜は動かない。ひたすら、上空を睨みつけている。 「俺はこんな話聞いてねぇぞ!」  一点を睨みつけながら叫ぶ十六夜。その声には今まで聞いたことのない焦りが混じっていた。  無数の光は一直線にあたしたちをまっすぐ目指し、豪雨のように降り注ぐ。  絶句するしかなかった。これを、この光景を見て、何が言える?  同じ言葉ばかりが、頭の中で繰り返される。  唖然としながら眺めていると、体に当たる直前、弾け散った。  まるで、何もない空間に壁でもあるかのようだった。  襲い来る矢。前から、上から、隙間なくあたしたちを狙うけれど、それは全て阻まれた。  現実感がない、なんてレベルはとっくに超えている。  一言で表現するなら……魔法だ。これ以上の相応しい言葉は、恐らく見つからないだろう。これは、現実ではない。これこそ夢だ。  手のひらを爪で強くつまんでみた。痛いだけで、願っても祈っても夢から覚める兆候は見られない。  どうなってるの……一体。  光が収束した頃合いを見計らって、あたしは再度十六夜の腕を揺らした。 「ねぇ十六夜、これは何? 何が起こってるの?」 「わからない」 「わからないって」  どうしてあたしたちだけが動いているの?  どうして時間が止まっているの……!?  喉まで出かかった叫び声。 「夢でしょ! ねぇ、夢だって言ってよ!」 「これは夢じゃない」 「夢じゃなかったら、何だって言うの!」  こちらに向き直った十六夜。口をパクパクと開け閉めしていたけれど、唐突に視線を走らせ唇をきつく結んだ。 「静かに」  厳しい表情に咄嗟に息を殺すと、何かが聞こえてきた。  さほど離れていない距離。砂利の踏みしめる音と動物の唸り声。  後ろに気配がした。ゆっくりと振り返る。  夕焼けが、近くに迫った大きな肢体と長い牙を赤く染め上げた。体の模様を見ただけでわかる、それは……。 「トラ?」  動物園でしか見たことのないトラ数頭が、牙をむき出しにしてこちらを威嚇していた。警戒といった生易しい空気ではない。肌に鋭く突き刺さるような、ゾクッとする敵意。  距離を取りたくて後ずさりすると、十六夜の背中とぶつかった。  逃げ場がない。囲まれた……!  これ以上一歩も下がれない。真後ろには十六夜がいる。  呼吸が浅く苦しい。極限まで緊張していた。 「落ち着いて、本物じゃないから。大丈夫だから」 「そんなこと言ったって!」  牙の隙間からヨダレがぼとりと滴り落ちた。 「あたしたちどうなっちゃうの? 食べられちゃうの?」 「有名パティシエのケーキ食べてないから、何があっても絶対死なん」 「冗談なんてどうでもいいから!」  咎めても十六夜はなお余裕。さきほどの焦りは完全に消えていた。  そんなあたしたちのやりとりを眺めていたトラ。様子を見ながらも、恐くて目を合わせられなかったけれど、ふとした拍子に、目を合わせてしまった。  瞳孔が一気に開く。吐き気を催す嫌悪感が全身に巡った。  ――嫌だ!  目を固く閉じ両手を握った。誰に祈っていいのかわからなかったけれど、とにかく助かるよう願った。握った両手が、全身が、カタカタと震える。立っているのが奇跡だった。  そんな空気を打ち破ったのは、 「冗談じゃない」  芯の通った声と……鈴に似た音。  澄み切った音色を吸い込むと、頭から水でも被ったように急速に体の熱が冷めていった。同時、唸り声が弱くなる。  薄目をそっと開ける。トラが耳をたたんでいた。 「脅えてる……?」 「これを見たからじゃないか?」  十六夜を振り返って見上げた。  大きく右手を掲げている。いつの間にか先端にリングが連なった杖が握りしめられていた。 「動くなよ。萱」  杖が踊り、空気が揺れる。  くるりと回転して夕空を指すと、淡い光を帯びてわずかに振動した。  脅えきったトラは、とうとうあたしたちに背を向ける。だけど、十六夜はその隙を逃すことはなかった。  杖の軌跡に乗り、輝く残像が空間を彩った――直後。杖の先端から閃光が放たれ、まっすぐトラを貫いた。まばたきも間に合わないような一瞬の間で、トラは抵抗することすら許されずに跡形もなく消滅した。 「とりあえず、これで大丈夫そうだな」  安堵の溜め息を漏らした十六夜。言い切ったすぐ後、柔らかい空気が立ち込めたのを感じて、どっと汗が噴き出た。体に力が入らなくなり、足元から崩れ落ちる。  ほどなくして時が元に戻ったのを知らせたのは、風で流され肌に触れた、噴水の水しぶきだった。 「……今日ファミレスで伝えたけれど、俺は催眠術を使っていない。あれは信頼関係の元で成り立つ思い込ませの技術だ。俺のは違う」  ポツリポツリと話は始まった。  地面にヘタり込んで動けなくなったあたしを、十六夜は近くのベンチに座らせた。そして、どこかから買ってきた缶コーヒーを握らせた。  あたしはされるがままだった。指先から伝わる温もりが、正気を保たせてくれた。  だけど、耳に届く街の音が、オブラートに包まれたように脳に響いてこない。バスのクラクションや帰宅中の足音は、あたしを余計に心細くさせる。  雑音や人工的な光に包まれた環境こそ、あたしが十五年過ごしてきた日常だ。これからも暮らしていく、大切な日常だ。それなのに――今は憎らしいほど、遠い。 「俺のは記憶そのものを置き換える。もちろん催眠術じゃないから、ある日術が解ける、なんてことはない。一生置き換えた記憶のままだ」  俯きっぱなしのあたしを、しゃがみ込んで下から覗く十六夜。遠慮と戸惑いが混ざった静かな語り口だったけれど、あたしは何も反応することができなかった。 「常磐撫子をはじめ、この学校中全員の記憶を塗り変えた。でも、たったひとりだけ、それができなかった人がいる」  大きな瞳が不安げに揺れる。 「段取りも手順も抜け目はなかった。つまり、できなかったんじゃなく効かなかったんだ。萱には通じなかった」  長い睫毛が瞬く。 「薄々感づいているかもしれないけど君は」 「やめて」  反射的に出たのは露骨な拒絶。  さっと陰った十六夜の表情を無視して立ち上がり、缶コーヒーを彼に突き返した。空いた手のひらを見る。まだ奮えていた。 「それ以上聞きたくない」  自分がどんな顔をしているかわからなかったけれど、十六夜がひどく悲しげだ。  でも、今さらそんなこと、どうでも良い。 「……帰る」  理不尽なことだってわかっている。だけど、真実を探ろうとしておきながら、いざ直面するとどう対処していいかわからなかった。  おぼつかない足取りのまま帰宅しようとすると、両腕を思いっきり掴まれる。 「ごめん。俺もこんなことになるとは思わなかった。君にこんな思いをさせるつもりはなかった……だけど、ダメなんだ。君に危険が!」 「何言ってんの?」  掴まれた腕を力ずくで引き剥がそうとしたけれど、無理だった。腕にこもる力がどんどん強くなる。痛みから気持ちが反発していくのを感じた。 「離してよ! あたしは関係ない!」  これじゃただのヒステリーだ。 「あたしが何したって言うの?」  これじゃただの八つ当たりだ。 「あたし……何もしてないじゃない。何でこんな目に遭わなきゃなんないの?」  逃避の心が次から次へと口から滑り落ちる。止まらない。 「あたしを巻き込まないでよ! あんただけでどうにかしてよ!」  最低だ。あたし。  人目もはばからず、思いつく限りの責める言葉を並び立てた。そんなことしたところで、何も変わらないことなんてわかっている。十六夜を傷つけるだけだ。何も変わらない……どうにもならない!  ぐちゃぐちゃだった。気持ちも、泣き散らした顔も。  しゃくりあげるほど涙を流した。十六夜はひたすら黙っていた。  ようやく落ち着いたころ、頭に骨張った感触が乗った。  十六夜の手のひらだ。  ポンポンと軽く叩かれ、髪の毛をグシャグシャにされた。 「何すんのさ!」  手ぐしで髪を整えると、十六夜はふっ、と息を漏らした。  瞳に映りこむ外灯の光は、切なくなるほど柔らかい。 「――俺は君へ会いにきたんだ。萱」  子供をあやすような優しい声。 「その一番の目的は、君を普通の高校生に戻すことだ」 「…………」 「今回起きたことは、俺も知らされていなかった。だから、危険な目に遭わせたりしない、なんてセリフ言えないんだけどさ」 「…………」 「君を守るから。そして、必ず普通にしてみせる」  ――さっき十六夜はトラを一撃で倒した。多分光の雨から守ってくれたのも十六夜だと思う。  高ぶった気持ちが静かになっていくのを感じた。普通の人生から取りこぼされた怖さは変わらない。変わりようがない。  でも、あたしが頼れるのは十六夜だ。十六夜だけなんだ。 「わかった、信じる。だから」  ひとりにしないで。  声には出さなかった。 NekoProject =============================================================== Name *** くろネコ *** URL *** http://nekoproject.net/ *** Mail *** nekonekoproject@gmail.com *** =============================================================== 感想お待ちしております。