Fiori di Luce 〜光の花束〜 恋の欠片 「撫子、おはよ」 「おはよう……って……どうしたの!? その怪我!?」  翌朝。左手首に包帯を巻いた手で挨拶したものだから、撫子は椅子から飛び跳ねて近寄ってきた。包帯を優しく撫でつけて、苦そうに首を傾げる。クラスメートも目を丸くして手首を盗み見ていた。 「昨日変なところで転んじゃってさ。結構ザックリ切れちゃった」  不自然じゃない程度に笑い飛ばす。傷の場所が場所だけに誤解されるかなと思ったけれど、さすがは親友。 「ドジねぇ」  と、オデコを軽く小突いただけで、それ以上は深く追求してこなかった。  ちなみに親にも同じ言い訳をしている。  あのあと、邪羅さんが力の抜けたあたしを家まで送り、その足で病院へ連れていってくれた。  どうやら縫わなきゃいけないほど深い傷だったらしく、仕事を終えて帰ってきた両親に説明すると、もの凄い剣幕で怒られた。仕事中でもいいから連絡してこい、と。  普段意識したことない両親からの愛情を感じると共に、黙って手を貸してくれた邪羅さんにはとても感謝している。  だけど、心は乾いていく一方だった。  明るい日が射し込む教室。開け放たれた窓から湿っぽい空気が流れ込み、あたしの視線の先にいる明るい髪を舞い上げた。  ……十六夜。  彼は疎まし気に窓を睨みつけ、再びクラスメートとの談笑に戻った。  特に変わった様子は見受けられない。十六夜独特の賑やかな笑い声がここまで届いてくる。  じゃあ、あれは。あの冷たい目は何だったのだろう。  あたしの見間違い……? 「どうしたの」  撫子はあたしの視線を辿り、彼の後ろ頭を一瞥してから不思議そうにあたしを見る。潤んだ瞳を向けられてはじめて、顔が強ばっているのに気がついた。 「何でもないよ。大丈夫」  否定してみたけれど、形の良い眉を跳ねさせる。 「本当に……?」  気を使ってくれているのが十分わかる、吟味された短い言葉。  本当は誰が関係しているのかわかっているのだろう。撫子は再び十六夜を一瞥した。 「大丈夫」  同じセリフを繰り返して、彼女の席を離れる。授業がはじまるまでの短い時間を堪能するクラスメートを横目に、自席に到着。立ったままちらりと隣の席を見た。  十六夜は同じクラスの男の子たちとじゃれあいながら話し込んでいる。表情は普段と変わりない、少年みたいな底抜けに明るい笑顔。  昨日の光景は気のせい……だった?  微かな期待が胸に灯る。  声をかけてみようか。「昨日は先帰ってひどい!」と軽口を叩いてみようか。  自分にできる演出を頭の中で思い描いたけれど、胸の鼓動は鳴り止まない。落ち着けと自制しても不安ばかりが募っていく。  誰にも聞こえない程度に小さく溜め息をつき、あたしは席に着こうとした。  その時、 「八重樫どうした? その包帯」  と、隣の席で集まっているうちのひとりに声をかけられた。他の人は問いかけたクラスメートを殴りつけ、触れてはいけない話題のように咎める。 「昨日転んで、その時に怪我しちゃった」 「なんだ……危ない道に走ったんじゃねぇのか」  意地悪そうに指差すので、あたしはこれ見よがしに腕を突き出した。 「リスカじゃないよ。縫ってきたんだけど傷口見る? 結構凄いよ」 「無理無理! おれそういうの苦手!」  がらりと変わった表情は、恐怖に満ちたものだった。  大げさに仰け反り、テレビの注射や手術シーンがいかにグロいかを力説する。  あたしを含め、周囲全員が苦笑いを浮かべたけれど、途中から話が耳に入らなくなった。  十六夜の茶色い瞳が包帯を捕らえる。長いまつげが瞬くと、まるで何もなかったように視線を反らし……彼らに向き直った。  目眩がした。体の中を冷たいものがスッと通り抜ける。立ち去る背中を見つめるしかできなかった昨日の出来事が、フラッシュバックしていく。 「旦那冷たいね。また喧嘩でもしたのか?」  あたしたちの様子に気づいてか、男の子たちがニヤニヤしながらからかってきた。 「旦那って?」と十六夜が聞くと、彼らは口と指を揃えて十六夜を示す。  十六夜は頬杖をついたまま彼らの指先を眺めていたけれど、一瞬間を置いて黙るあたしに顔を向ける。  今日はじめて、目があった。 「……だってさ。旦那なんて、そんな風に思われても困るよね」  仮面を貼りつけたような作られた笑みに、血の気がどんどん引いていく。  もちろん異論はない。  ないけれど返答に困った。普段なら『ありえない』とか『無理』って言葉が意識しなくても出てくるのに、今は体が発言を嫌がっている。 「蘇芳……頭でも打ったか?」  自傷を疑ってきた男の子が十六夜の前で手を振った。いつもの十六夜じゃないと感じたらしい。他のメンバーも顔を見あわせて何か言いたそうにしている。  だけど、十六夜にとってはその質問の方が奇妙に思えたようで、 「何で?」  髪を掻きあげて素っ気なく聞き返した。 「何でって言われても……お前ら、マジで喧嘩してんの?」 「喧嘩なんてしてないよ」 「じゃあなんで、八重樫の傷に無反応なんだよ」 「特に言うことなかったから黙ってただけだけど。それが何? 何か変だったか?」  首が喉を締めつける。取り込むわけでもなく突き放すわけでもない言葉は、あたしを落胆させた。ものの一瞬で空気が沈み、朝の慌ただしい足音が体にまとわりつく。  透き通った瞳には感情が全く浮かんでいない。口にしなくても無関心だというのがはっきりと伝わってくる。  あたしたちは互いに見つめあったまま黙り込んだ。 「マジかよ」  男の子が気まずそうに呟くと、十六夜は何気なしに振り向いた。  そして、とどめとばかりに言い放つ。 「マジも何も……俺たち隣同士なだけだし、喧嘩する理由ないじゃん」  隣同士な『だけ』。会話の一部分がやけに強調して聞こえた。  たったの二音。だけど、この上ない二音。  単純だからこそ、十六夜が何を伝えたいかが集約される。それは、彼自身が昨日の瞳を肯定したこと他ならない。  見間違いじゃなかった。幻なんかじゃなかったんだ。  彼にとってあたしはもう、友達じゃない。  制服が肌に張りつく季節なのに寒気を感じる。立っているのがやっとな状態の中、あたしの背後で人の気配がした。 「何よそれ」  低い声で威嚇したのは、さっきまで遠くにいた撫子。腕を組みながら十六夜を睨みつけている。 「この前の仕返しのつもり? アンタまで『こんな奴なんて知らない』なんて言い出すんじゃないでしょうね?」 「初対面じゃないんだから言うわけないんじゃん。あぁ、でも俺は言われたんだよな」  十六夜は撫子の視線を真っ向から受け止めて、皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。  男の子たちは不穏な空気に耐えられなくなったのか、静かに去っていく。 「この子は言ってもいいけど、アンタが言っちゃだめでしょ」  「どんな差別だよ」 「とにかく、だめなものはだめ」 「あのなぁ」 「もういいよ。撫子」  今にも噛みつきそうな撫子の腕を掴んで首を振る。 「喧嘩してないのは本当だから……だから大丈夫」  今日何度目かの大丈夫を口にして、あたしは小さな苦笑いを返した。  だけど返せた笑顔も長く保てなかった。撫子の痛ましいものを見る視線に、精一杯の強がりが脆く崩れ去る。  彼女は溜め息を吐いたあと、机の上に出ていた日本史の教科書を手に取り十六夜の頭を力任せに叩いた。 「何すんだ!」  鈍い音と共に抗議の声があがってきたけれど、撫子は一切耳を貸さない。  そして、 「萱。あたしの席に座って。今日はあたしが『八重樫萱』やるから」  目が座った状態で突拍子もないことを言い出した。  提案内容の意図が汲み取れなかったので、彼女の顔をまじまじと見返した。満足そうに黒髪を掻きあげた撫子は、あたしの椅子に手をかける。 「席を交換するの。こんな席に座る必要ないから」 「いや、テストあるから交換するわけにいかないし」  あと数時間後で数学の小テストが行われる。邪羅さんから特訓を受けた、例のテストだ。  撫子は毛先を指先に巻きつけて、面倒そうにあたしをあしらう。 「つべこべ言わないの。ほら! あっち行った行った!」  どうやらあたしが口を挟む隙間すらないらしい。というか、こうなった撫子には手がつけられないことを重々承知している。  痛そうに頭をさすっている十六夜に顔を向けた。こんなに近いのだからあたしが顔を見ているのは気づいていると思う。だけど、彼はこちらを向こうともしない。  あたしは沈んだ気持ちのまま自分の席を離れ、撫子の席へ足を向けた。  常磐撫子の名前をあたしの頭脳で汚す訳にはいかなかったから、テストの時間だけは元の席に戻らせてもらえるよう撫子にお願いした。思いのほか手応えがあったけど、撫子が得るだろう点数には到底届かない。  脳裏で微笑む邪羅さんに両手をあわせる。自分の実力だけならこれだけの充足感は得られなかっただろう。  そんなことを掃除の時間に伝えると、撫子はごみ箱を抱えて笑った。 「確かに喧嘩っていう風には見えないね」  やはり撫子は鋭い。何をどれだけ取り繕っても、簡単に見抜かれてしまう。 「何があったか、話せる?」  紙くずをごみ袋に放り込みながら、彼女は当然の疑問を口にした。あたしは支えていたごみ袋の口を縛って天井の蛍光灯を仰ぐ。 「原因が思い当たらなくてさ」  収集所にごみを捨てるために歩き出したけれど、十六夜のことを考えると必然的に足取りは重くなった。  十六夜の態度があそこまで変わる原因がわからない。もし喧嘩だったら、あたしにだって少しは言いようがあった。謝ることだってできる。  普通の十六夜と今の十六夜。境目だと考えられるのは魁の錐だけだ。あたしが攻撃を受けるはずだった、真っ黒い錐。 「えっとね……結果的に転んじゃったけど、下手するともっとひどい怪我になりそうだったんだ。それを十六夜が助けてくれた」 「蘇芳が萱をかばったってこと?」  撫子は足を止めて下唇をさすり、数メートル先にある扉をじっと見つめた。  開けっ放しの扉は人通りが激しく、時々人とぶつかりそうになるけれど撫子は気にもせず考え込んでいる。迷惑そうな他人の視線が気になり、早くごみを捨てようと声をかけたら、彼女は神妙な顔つきで首を傾げた。 「ねぇ、本当に思い当たらない?」 「どうして?」 「蘇芳の性格からすると、アンタをかばって自分が怪我したとしても、あそこまでヘソ曲げないわね」  再び歩き出し、あたしたちは校舎から出る。ごみ袋を抱えながら自分の教室を窓越しに見たけど、十六夜はいないらしい。  確認の視線を投げると撫子は首を大きく振った。 「だから、原因は違うところにあると思う」 「そう言われても」 「ああいうタイプって、ひと知れずストレス抱え込むこと多いわよ。自分そっちのけで相手を優先するのは美談っぽいけど、限度を越すとロクなことがない。あたしは感心しないな」  貸して、とごみ袋を催促する撫子。腕に怪我を負ったあたしを気遣ってのことだと思う。ありがたくごみ袋を渡すと、彼女はプールにほど近い収集所へ駆けていった。  一歩夏に近づいた太陽が、雲間から顔を覗かせて水面を照らす。光が乱反射する様子をぼんやり眺めていたら、ふと撫子の言わんとしていることに気づいた。 「もしかして……喧嘩じゃなくても原因はあたしってこと?」  そう言うと、走って戻ってきた撫子が肩をすくめた。 「憶測だけど、ね。だって萱だけに冷たいじゃない?」 「確かにそうだけど」  「んで、原因がわかんないのなら、アンタが無意識で何かやらかしたと思ってる。蘇芳もノーを突きつければいいのに、それをやらないからこうなったかな、ってね」  撫子の言い分から考えると、あたしが無意識で何かやって十六夜がそれを優先し、断らなかった。  十六夜と過ごした様々な記憶を巡り――撫子の指摘とあまりにもぴったり一致する出来事を思い出して愕然とする。  はじめて争いの場に遭遇した時、泣き散らしながら自分は関係ないと拒絶した。巻き込むな、十六夜だけで解決しろと、身勝手極まりないわがままを吐いたにも関わらず、十六夜は気にするなと笑いかけてくれた。  顔中で笑っている顔や微笑み。彼の様々な笑顔が脳内を隅々まで埋め尽くす。次々と浮かんでくるけれど、その笑顔が消える度にあたしの甘えが影として見えた。  指を唇に押し当てる。カタカタと小刻みに震えていた。 「何か思い出したみたいね」  遠慮がちな溜め息が聞こえた。  今起きていることやハートのこと。そして、十六夜は人間じゃないということ。  知らなければいけない現実に目を背けて、あたしは……。 「撫子どうしよう、十六夜に謝らないと!」  あたしは十六夜の思いをどれだけ踏みにじったんだろう。しかも、魁と対峙した時……あたしは諦めた。傷を増やしてもハートを守ろうとする十六夜の意思を無視して、何もかも諦めた。 「何があったか知らないけど、早いうちがいいわね。放課後捕まえて謝ったら?」  最もな提案に、あたしはゆっくり頷いた。謝るチャンスは、多分そこしかないから。  放課後、怪我を案じる担任に話しかけられ、気がつけば十六夜の姿は教室になかった。  撫子への挨拶もそこそこに教室を飛び出し、やっとの思いで彼に見かけたのは校舎を出た直後だった。  気だるそうに歩く後ろ姿。呼びかけた直後に腕を掴み、人気のない脇道へ無理矢理連れ込んだ。 「痛いな……何するんだ」  歩いている途中は目を見る勇気がなかった。この抗議の声も背中で聞いていた。けど、ずっと背を向けているわけにいかない。こんな風に十六夜を仕向けたのは、自分。  悪いのは……自分。 「ごめん。十六夜」  振り向き、勢い良く頭を下げる。 「今までごめん。あたし十六夜の優しさにずっと甘えてきた。あたしはハート……なんでしょう? 深く関わってるのに、無関係を主張するなんて最低だったよね」  視界いっぱいに広がる地面。目の端に映る靴は、ぴくりとも動かない。  しばらく沈黙が続いた。  痺れを切らしたあたしが顔を上げると、そこには目を細めた十六夜の姿。  怠惰や魁にしか向けたことのなかった、本気の怒りがにじみ出ていた。 「こんなところまで連れてきて何言い出すかと思えば」  十六夜は至って淡々と告げる。滑稽だとでも言いたいのか、鼻で笑って話を続けた。 「普通に生きていくだけなら知る必要もなかった情報を、君は知った。俺たちのコアとなるハート持っている……その理由だけで日常が崩壊したんだ。拒否する理由は十分だろう?」  冷淡な眼差しに、肩がびくりと跳ねた。足が一歩、ひとりでに後ずさる。 「拒否する権利もあるだろう? 普通の人間なんだから」  理由? 権利?  この人は一体、何を言って……。 「じゃあ、どうして怒ってるの?」  口から出た声が、やけに冷えているのに自分でも気づいた。  あたしに対する怒りは、諦めたことが原因じゃないっていうこと?  顔を覗き込むけれど、その瞳はあたしを通してどこか遠くを見つめている。 「どうしてあたしのこと、隣同士なだけって言ったの? どうして包帯見ても何も言ってくれないの?」 「…………」 「何が……気に障ったのよ?」 「別に」  面倒くさそうにそう言って背を向け、立ち去ろうとする。  何も話す事はない、と背中が語っていた。 「十六夜!」  左腕を掴んで引き止めると、十六夜は力いっぱい掴み返しあたしの手を邪険に振りほどいた。  怒るでも蔑むでもなく、ただ無表情で言う。 「何か勘違いしてないか?」  手首に指が食い込む。その力の強さに顔をしかめたけれど、力は一向に緩む様子がない。 「俺がここへ来たのは君を普通の高校生に戻すためだ。それはわかっているんだろう?」      十六夜は握り続けたあたしの腕を投げ捨てるように手放す。 「……わかってる、けど」 「じゃあ何故『隣同士なだけ』が不満なんだ」  しどろもどろなあたしの言葉を、十六夜は畳み掛けるように被せた。 「君は人間で、俺は人間じゃない。知っているだろう?」 「それは……っ!」 「知ってもなお、同等の関係になれると思ったか?」 「…………」 「友達にでも、なったつもりでいたのか?」  呆然と自分の腕を見るあたしを一瞥して、睨みつける。  友達になった、つもり。  つまり友達じゃなくなったんじゃなくて、そもそも友達にさえなっていなかった。そう言いたいらしい。  大切な思い出がごみ扱いされた気がして、一瞬で理性が千切れた。  あたしたちが培ってきた関係は、何だったのだろう。過ごしてきた日々は、一体何だったのだろう。  粉々になるふたりの関係を目の当たりにすると、何故だか無性におかしさが込みあげてきて、あたしは笑い出してしまった。明るさも楽しさも含まない声が、校舎の壁で跳ね返って虚しく響く。 「……何だ。あたしの勘違いだったんだ、馬鹿みたい」  人に対してきちんと謝罪できるプライドは持ちあわせているつもりだった。気遣いだって人並みにできると思っていたのに、あたしの決めつけでしかないと十六夜に教えられた。 「友達でもないって言うなら、あたしに優しくしないでよ。今みたいにしかめっ面で、義務でハートを守ればいいじゃない!」  自分の行いを棚に上げて十六夜を睨み返した。友達だと思っていた人に根本から否定された今、自分をまっすぐ伝えられるほど、あたしは強い人間じゃない。  仲良くしてほしい。優しくしてほしい。あたしを……見てほしい。  自分の気持ちと口から滑る言葉のズレが胸に刺さる。 「どうしてよ……どうしてあたしの近くにいるの?」  風が吹き抜ける。彼は顔にかぶさる髪を振り払わずに、じっとつっ立っていた。風が止んだ時、十六夜は静かに口を開いた。そして。  あたしが最も聞きたくなかったことをおもむろに告げる。 「ハートを調査・回収するためだ。君のそばに――『八重樫萱』の近くにいたかったわけじゃ、ない」  冷たいだけの言葉を耳にした直後。全身が打ち震えるのを感じた。  お腹の奥底に沈んだ光の粒子が、体中を駆け抜ける。何が起こっているのか把握するより先に、涙腺が壊れて大粒の涙が溢れた。  頭の中を粒子が渦巻いている。静電気のようなピリピリとした感触が足から頭へ抜けた後、体が耐えきれず崩れ落ちた。  全身、痺れている。 「何、これ」  口に出してみるものの、自分でも愚問なことはわかっていた。過去の経験から、何があたしの意思に応えたのかなんて明白。  様子を眺めていた十六夜があたしに触れようとしたけれど、その手は何もない空間であっさり弾かれた。  手触りを確かめるように何度も手を伸ばし、その度に跳ね返る。 「君だって俺と距離を置きたいんだろう?」  十六夜はあたしの目の前で、コンコンとノックする。  目に見えなくても固い壁があるのがわかった。お互いの気持ちが、別々の方向を向いていると証明する固い固い壁が。 「はじめて会ったとき、ハートを発動させて俺を拒絶したじゃないか。今と全く同じようにな」  ゆっくりと手が離れ、十六夜はあたしに背を向ける。  ――違う、と。違うと言えればよかったのに、喉でつっかえて声にならなかった。  こんなあたしには、本音よりも言い訳のほうが相応しいのに、それすら口にできなかった。  彼はあたしだから近くにいたんじゃない。あたしがハートだから、そばにいた。その事実があまりにも苦しくて、ひざをついたまま身動きができないでいた。  ……十六夜。今のあたしには、あなたの名前さえ重い。  あたしは立ち去る彼を止めることもできず、ただぼんやり眺め続けていた。  彼の背中に、何故か寂しそうな魁が重なるのを不思議に思いながら。  十六夜とトラブルを起こして数日が過ぎ、とうとう期末テストがやってきた。  そして……見事にやってのけてしまった。  戻ってきた答案用紙を見て安堵する人が多い中、あたしは自分の能力の低さに呆れている。丸の少ない物理の点数は、四十四点。あたしの範疇は理科まで、なんて冗談すら言えない数字をたたき出してしまった。  追試……かなぁ。  夏休みがあんなに楽しみだったのに、追試や補習で一部が潰れてしまうことが残念でならない。ただし、一点だけは感謝している。  気づかれないよう注意を払って、隣の席に視線をやった。テスト期間中もしつこくあたしの頭を蝕み続けていた例の茶髪は、自分の答案を指でなぞらえながらまじまじと見ている。  あたしが約束を取りつけた花火は、勉強で流れてくれるだろう。十六夜の顔を見なくて済むのは、すごくありがたい。自分の口で約束を断れば良いのだけど、ふたりに説明したなら十六夜にもちゃんと伝えなければならない。流石にそれはキツい。  逃げの口実を頭で繰り返している間、あたしは十六夜を食い入るように見つめていたらしい。  慌てて首を捻る。顔が逆方向を向いたのは、彼がこっちに向いたのと同時だと思う。ほっと胸を撫で下ろしたら、期末までの日々がふと蘇ってきた。  ……あれ以来、十六夜の顔をまともに見ていない。顔が合いそうになれば視線を反らし、すれ違いそうになれば逃げ出す。一触即発になる恐れがあるから、極力避けて過ごした。  テスト期間中に魁と怠惰が来なかったのは、不幸中の幸い。こんなギクシャクした状態で襲われたらと想像すると、あまりにも恐ろしい。 「萱、テストどうだった? って、ひどい点数だね。こりゃ」  物音立てずに忍び寄った影が、あっという間にあたしの答案をかっさらった。  長い黒髪をくるくると自分の指に巻きつけながら、呆れた声を出す。 「ちょっと! 撫子! プライバシー!!」  奪い返そうと抵抗したけど、 「何がプライバシーよ。胸張れる点数出せば恥ずかしくないでしょうが」  そう言って物理の答案を綺麗に折り畳み、自分の制服の中に仕舞った。男の人が手出ししようものならセクハラ呼ばわりされる場所なので、あたしもおおっぴらに手を突っ込めない。 「どこに入れてんの!」  せめてもの抵抗として手首を掴みにいったけれど、彼女はあたしの手を躱しながら楽しそうに笑う。 「どうせこんなことになるだろうって思ってたよ。誰のせいなんて言わないけどねー」  撫子は十六夜の背中に向かってわざとらしく言った。十六夜も自分のことだと理解していそうだけど、彼は振り向かない。  それをいいことに、撫子は十六夜の後ろ頭を睨みつける。今にも暴れそうな表情をしていたので、あたしは彼女の肩をポンポンと叩いた。 「もうわかったから返してください」 「やーよ。今日の放課後、付き合ってもらうんだから、まだ返さないわよ」 「放課後?」  撫子はあたしの鼻先を突いてニヤリと笑った。  よからぬことを企んでいるに違いないけど賢い彼女のことだ、悪い話じゃないだろう。  あたしはもう一度十六夜の背中を見つめた。吐息さえも届く距離なのに、ふたりの間に崖でもあるようだ。自分はまだ、崖を飛び越える勇気がない。そして。  十六夜はそっぽ向いて離れていくのだろう。 「それで僕が呼び出されたわけですか」  赤茶けた髪を掻きむしりながら、邪羅さんは溜め息を吐いた。  放課後、撫子はあたしの背中を押してファミレスへと連れてきた。この前数学の勉強会を開いていたファミレスだ。  どういうことかと尋ねたら撫子はひと言、特訓するのよ、と答えた。  邪羅さんの手にはあたしの答案用紙。つまり特訓というのは、物理の勉強会を示すらしい。  鼻歌まじりにメニューを眺める撫子の隣で、あたしは邪羅さんに頭を下げた。 「……ご、ご迷惑をおかけします」 「かまわないんですけどね」  笑顔が若干引きつっている。前回の数学もひどいものだったけれど、今回の物理も相当なものだ。きっと呆れているに違いない。  撫子はテーブル近くを過ぎる店員さんを呼び止めて注文していた。満足そうにメニューを返してから、頬杖をついて邪羅さんに笑いかける。 「あたしの説明じゃわからないと思ったからさ。邪羅君に任せたわ」  邪羅さんは答案用紙の隅々まで目を走らせると、折り目の通りに畳み直した。  そして目の前のグラスに数秒注目し、静かに口を開く。 「テストや公式だと難しく感じるかもしれませんが、物も力も身近なものです」  邪羅さんは、根本的なことからお話ししましょう、と前置きした上で三人分のグラスを手に取った。中央に寄せて正三角形を作ると、氷がカランと音を立てる。  その瞬間、周りの騒々しさがぴたりと止んだ気がした。他人の話し声が急激に遠ざかり、鬱蒼とした森林にいるような奇妙な感覚に陥る。  気が自然と引き締まる。身を乗り出して耳を傾けると、彼は世界の法則についてゆっくり語りはじめた。 「物……つまり、土や木、植物や動物、細胞や分子などに関わるのが『物質』の領域です」  と、撫子の前のグラスを人差し指で弾く。水分を含んだ音色が綺麗に鳴った。 「電力や重力といった物の動き・運動に関わるのが『力』の領域です」  今度は邪羅さんの前のグラスを鳴らす。 「最後。生物の想い・感情に関わるのが『思念』の領域です」  あたしの前のグラスを鳴らす。 「これら三つの領域は互いに関係し合い、それぞれ『時間』という流れに乗ることで世界は成り立っています」  物質、力、思念と、各グラスの上で指をひと回転させる。  集中して聞いていたけれど、話が壮大過ぎて口を挟む隙間さえ見えない。  この話が物理のテストとどう繋がるのだろう。 「各領域は他からの影響がない限り、ただそこに在るだけです。例えば物質の領域。物というのは、力の影響を受けて初めて動くんです。こうやって……」  邪羅さんはグラスをひとつ握って横に滑らせる。 「グラスが動くのも、僕が力を加えたからです。グラスという物質が、僕から発生した力の影響を受けたわけです」  概念として理解しろ、と邪羅さんは言う。 「物の動きというのは大まかに分けると、留まる・移動する・回転する・変化する……この四つに分類することができます」  邪羅さんはグラスを三人の前に戻し、テーブルの角に避けていた答案用紙をあたしに手渡した。紙ナプキンで水滴の跡を拭きながら、答案用紙に残されたあたしの弱点をあっさりと見抜く。 「拝見したところ、加速や重力で躓いているようですね」 「うん。難しい」 「今回の範囲ですと、停止したものが移動する、移動しているものが加速する、移動しているものが反対に動く……この三つの動きに絞れますので、コツさえ掴めば簡単ですよ」  その言葉を機に、問題の解説がはじまる。  邪羅さんはあたしの教科書を眺めながら、力と運動について説明していった。こんがらかった堅い結び目を解くように、あたしが間違えて覚えていたものを丁寧に修正する。物理の話だというのに、何だかおとぎ話でも聞かされているかのようで。  前回の数学と同様、暗くなる頃には物理の問題が薄気味悪いくらい簡単に感じた。  凄いとしか言いようがない。うん。凄い。  邪羅さんの手腕に感心しきっていると、 「……うそ! もうこんな時間!」  撫子が店内の時計を見るなり、慌てて腰を上げた。 「何か用事でもあるの?」 「図書館に本返しに行かなきゃ。あそこ早く閉まっちゃうのよ」  氷が溶けきったアイスティーを一気に飲み干し、文房具をあたふたと片づけ出した。 「あ、ほんと? じゃ、急がなきゃね」  そう言って撫子に続こうとペンケースを手にしたら、お札が視界を塞いだ。 「萱はまだ聞かなきゃいけないことあるでしょ?」  撫子はあたしの手に千円札を握らせて指を振った。  聞かなきゃいけないことと言われても、特にこれと言ったものは思い浮かばない。そんなあたしを見てか、撫子はテーブル席から出た途端、邪羅さんに向かって肩をすくめてみせる。 「この子喧嘩してるのよ。あの馬鹿と」 「あの馬鹿というのは?」 「蘇芳のこと」  ぽかんとしている邪羅さんに説明した。邪羅さんは、あぁ、と頷く。 「あたしは別に」 「話せる分だけ話して、聞くだけ聞いて、それから今後のことを考えな。無理に仲直りしなとは言わないよ」  よく考えてみれば、邪羅さんはその場へ居合わせていた。と言うか、思い出してみると病院に連れて行ってくれた礼もまだだった。 「邪羅君、今日はありがとね。また聞かせてくれない? アンタの話面白いわ」 「僕で良ければいつでも」  邪羅さんはニッコリ笑って頷く。それを確認すると、撫子は挨拶もそこそこにファミレスを飛び出して行った。  嵐が過ぎ去った後のように、テーブルが静まり返る。店員さんが、空いたグラスを下げた隙に、本日二回目の謝罪をした。 「邪羅さんごめんね。あたし、病院に連れてってくれたお礼もしてなかったね」 「具合はいかがですか」  邪羅さんは、あたしの腕を指差して言う。 「大丈夫。邪羅さんのお陰だよ、ありがとう」  抜糸が済んでいてもまだ油断できないので、包帯は巻いたままだ。汗ばむ季節だから包帯を取ってしまいたいけれど、踏み切れないのが少々辛い。  怪我をしたあの時、直前まで何が起こっていたのかを邪羅さんへ話した。  正直なところ、思い出すにつれて胸が痛む。  あの時までの十六夜は、青空を思わせる笑顔が絶えなかった。  あの時までの十六夜なら、今頃あたしと同じように物理で赤点を取り、あたしの隣で勉強を教わっていたのだろう。  そんなことを願っている、自分の気持ちまで伝える気はなかった。十六夜へは、もうそれ以上望まないでいようと自分を戒めてきたから。  だけど邪羅さんは、あたしの目をじっと見て言う。 「何故、明るく振る舞おうとなさるのですか」 「振る舞ってなんか……」 「今の萱さんを見ると、ただ『喧嘩した』というだけには思えません」  居心地悪い視線を避けて、あたしは窓に目を向けた。  撫子といい邪羅さんといい、どうしてこうも気持ちを当ててくるのだろう。  強くて眩しい。だからこそ――痛い。 「……平気だから」  それは自分を欺く言葉で、自分に必要な言葉。  あからさまな強がりだとわかっている。露骨に暗い表情をしていた恐れだってある。  だけど……見過ごしてほしい。どれだけ愚かでも、平気なふりをさせてほしい。  じゃないと足元から崩れてしまいそうで恐い。 「確認ですが、十六夜さんは魁から攻撃を受けたとおっしゃっていましたよね」 「え? う、うん」  邪羅さんは瞳を閉じて考え込む。数秒思案してから、ぼそりと呟く。 「勝算のない賭けごとは好みませんが、どうこう言ってる場合でもなさそうですね」 「賭けごとって?」  問い返すと、今度は邪羅さんが視線を反らせた。  テーブルを指先でトントンと叩き、空になったグラスで水を飲もうとする。中身がないことに気づくと、深く息を吐いてから再び目線を合わせた。  そして、 「今回の一件、萱さんではなく魁が元凶かもしれません」  あまりにも衝撃的な可能性を示した。  邪羅さんは小さく笑って、空のグラスを弄びながら言う。 「以前、十六夜さんが妙に楽しそうにしているので質問をしたんですよ。『やりたいことでも見つけたのか?』と」 「やりたいこと?」 「ええ。何て言ったと思いますか」  ぽんと浮かんだのは、嬉しそうに甘いものを食べるシーン。撫子とふたりで最新のお菓子について語り合っているのを見たことがある。  十六夜のやりたいこと。  彼なら乙女みたいな願望を言いかねない。 「お腹一杯ケーキが食べたい、とか?」  あたしの答えを聞いて邪羅さんは吹き出す。肩を揺らせてこめかみに手を当てた。 「ハズレですが、それもやりたいことのひとつでしょうね。さすが、良く理解してらっしゃる」 「あんまり嬉しくない……」 「正解は『萱のお嫁さんになりたい』でした」  思考が完全に止まった。  予想を超え過ぎて、思わず口にした水で咳き込んでしまう。 「はぁぁぁぁ!?」 「お嫁さんというのは女性を指す言葉なのに、叡智と呼ばれし者の発言とは思えませんね」  不服そうにグラスを置く邪羅さん。手を挙げて店員さんを呼び止め、飲み物の追加を行っていた。  追及する箇所について横やりを入れようとした時、花嫁というキーワードから涙で緩んだ視界が脳裏をよぎった。  魁から攻撃を受けた後のこと。立ち去る十六夜しか印象に残っていなかったけれど、思い起こしてみれば違う出来事があった。  都合の良い記憶をでっち上げているだけかもしれない。でも、憎しみのない十六夜の笑顔が、彼自身のセリフを蘇らせる。 『俺は萱の笑顔が――萱が好きなのに、困らせてばかりだ』  あたし、あの時、告白されてた?  ほんの数秒前まで忘れていたというのに、甘い声が耳の奥に響いた瞬間、抱きとめられた腕の感触が肌に戻る。  背中に触れた指の長さまで鮮明に思い出し、みるみるうちに顔が火照り出した。 「どうかしました?」 「えっ!」  邪羅さんの問いかけに驚き、声が綺麗に裏返った。  疑わしそうな目を向けられると同時に、店員さんが追加した飲み物を持って現れる。落ち着かないあたしは、邪羅さんに促されるままコーヒーを手にした。  唇をつけると苦みを伴う香りが口中に広がる。温かな熱が喉から体の芯まで伝わり、焦るばかりだったあたしの気持ちをじんわりと静めてくれた。 「落ち着きました?」 「……うん」 「じゃあ、続きを話しましょうか」  邪羅さんはストローでアイスティーをかき混ぜ、氷の動きを追った。ひと口含んでから話を切り出す。 「僕がその話を聞いたのは、怠惰や魁に襲われる少し前です。そして、誤摩化さずに僕に言ったということは、あながち冗談でもない。今の十六夜さんの状態と比べて、明らかに矛盾していますよね」 「矛盾?」 「もし、萱さんのことを友達でないと思っているのなら、お嫁さんになりたいなんてふざけたことは言わないはずです」  それが、邪羅さんの言う矛盾。言動と行動の辻褄が合っていない。 「態度が豹変する直前に魁に攻撃されていたとしたら、攻撃以外に何かあった可能性があります」  その言葉に、どんな意味を含んでいたのかは嫌でも読み取れた。 「魁が……攻撃以外に何か仕掛けてたってこと?」  「調べてみる価値はあります」  ……胸がざわざわと波を立てる。  十六夜がおかしくなった原因が魁だと言うのなら、もしかして。 「十六夜は……元に戻るの?」  淡い期待を抱き、声を震わせて尋ねたら、邪羅さんはこくりと頷いた。 「おそらく戻せるでしょう。ただし、僕も魁に関しての情報はほぼゼロです。同じ空間にいても居場所さえわからないくらいですから、実態がまるで掴めない。そこで――あなたの出番です。萱さん」  どきり、とした。 「あなたには魁の居場所がわかる。この特性を生かして、今度はこちらから魁を探しに行きましょう」  宣戦布告ですよ。  邪羅さんはそう言って、あたしを指差した。  土曜日の午後。はじめて襲撃を受けた噴水公園で邪羅さんと待ち合わせをしていた。  額に手をかざして空を仰ぐと、存在感を増した太陽と目があう。つい先日まで雨が鬱陶しかったのに、季節が移り変わる早さに驚いてしまう。  この三連休が過ぎれば、待ちわびた終業式が来る。成績表さえ乗り越えれば、あとは楽しみに待っていた夏休み。  だけど、さすがに今日ばかりは気が重い。これから起こる出来事を想像すると不安ばかりが胸を渦巻く。  まぁ、気分が沈むのは、邪羅さんが最も会いたくない人を連れてきたからっていう理由もあると思うけどね。 「何で俺が付き合わされなきゃいけないんだ……」  痛い陽射しを避けるため近くの木陰で暑さをしのいでいると、露骨に嫌そうにしている十六夜を連れて邪羅さんがやってきた。 「過去ハートが反応したのは三回。その全てに遭遇しているんです。十六夜さんが何かしら絡んでいると考えるべきです」  邪羅さんは、掴んでいた十六夜の腕をあたしに向かって放り投げた。  バランスを崩した十六夜は危うく倒れそうになった。かろうじて踏み留まると十六夜は邪羅さんに詰め寄る。そして、大きな口を開けたけれど、何故か言葉を続けなかった。  蝉の鳴き声の隙間から噴水で遊ぶ音が届く。はち切れそうな楽しさが、子供たちをわざわざ目にしなくても伝わってきて、居心地が悪い。  原因はやはりこの人だ。真正面の横顔に焦点を合わせた。  頭上の樹から漏れる光が、十六夜の茶髪で反射して眩しい。学校では、この髪を極力視界に入れてこなかったけれど、ここまで近くにいる場合は不可抗力で見てしまう。 「何だよ」  物珍しいような久しぶりのような気分で観察していたら、不機嫌な声が返ってきた。 「……別に。何でもない」  ひと言の威力が強い。十六夜は、その声だけであたしの喉をいとも簡単に締めつける。自分の頬が強ばるのを感じて顔を背けた。  十六夜の暗さは魁が原因かもしれないとわかっている。それなのに、顔を合わせると……どうしても上手くいかない。  半歩分後ずさって十六夜と距離を置いたら、邪羅さんは目を細めて十六夜をねめつけた。 「十六夜さん……何があったか知りませんが、甘えないで欲しいですね。ハートの調査や回収はあなたの仕事です。ちゃんと務めを果たしてください」  言われて、不服そうにそっぽを向く十六夜。  あたしの背後にある樹に体を預け、抜け殻のような目をこちらにやる。その姿を見て、あくまで傍観者でいたいのだと悟った。 「思っていた以上に重症ですね、放っておきましょう」  観念したのか邪羅さんはかぶりを振って、あたしと向かい合った。青々とした葉擦れの音が素肌を撫でていった時、邪羅さんは今日の目的を語りだした。 「今日の目的は魁とコンタクトを取ることです。萱さん、ハートが反応した時の感覚は覚えていますか」  一回目は十六夜と出逢った時。二回目は怠惰に襲われた時。三回目は十六夜と喧嘩した時だ。全てに共通しているのは、あたしが何かを拒絶したということ。そして、十六夜が近くにいたということ。 「体の奥で何かが弾けた感じだった」 「では、その感覚を軸にしてみましょう。くすぐったいかもしれませんが、座ってください」  雑草が茂る地面に腰を落とした邪羅さんに続いて、あたしも座り込む。柔らかい草の感触をむき出しの膝で感じながら次の言葉を待った。 「いいですか、相手とコンタクトを取る方法は二種類あります」 「二種類?」 「相手を呼ぶか、自分が相手に飛び込むか、ということです」  あたしと自分を交互に指差した。摩訶不思議な世界を本格的に覗きに行くようで、否応無しに胸は高鳴る。 「僕たちはそれぞれ、時間と区切られた空間へ移動する力を持っています。その空間は単体で動くことも可能ですが、複数で動くこともできます」  複数、とわざわざ言及したことでひとつの光景が脳裏をよぎった。 「もしかして、戦いの空間って」 「その通り。あれは誰かに呼ばれた結果です。僕たちの誰かではないので、恐らく怠惰か魁に引っ張られたのでしょう」  邪羅さんは親指を立てて、自分の胸を突いた。 「自分の体内に空間があることをイメージしてください。その中に、僕たちの意識が引きずり込まれるんです」 「ハートが反応した時の感覚……何かが弾ける感覚もその空間になるの?」 「いえ、それは恐らくハートそのものの動きでしょう。まぁ、やってみたら感覚の違いがわかりますよ」  邪羅さんは、あたしの背後にいる人物を気にも留めずに続けた。 「まずは僕を練習台にして、僕をあなたの中……ハートの中へ呼び込んでもらいます」  そう言って、あたしの届く範囲へ手を差し出してきた。 「僕の手を握ってください」  手を握るのか。  撫子の顔が浮かんできて少し躊躇ったけれど、大人しく邪羅さんの手に自分の手を重ねる。 「この感触をしっかり覚えてください。これがあなたの道しるべとなりますから」  想像していた以上の温もりがしっかりと握り返してきた。  これが道しるべ。邪羅さんの指や手の弾力を頭に叩き付けて、彼の声に集中する。 「目を閉じて……深呼吸をしてください」  瞳を閉じる。  暗闇の中、繋がった手から響く彼の言葉に流されるまま、深呼吸をひとつ。 「萱さんの下には地球があります。地球と繋がっていることをイメージして」  脚に触れる草の感触。草に混じった土の感触。自分が地球の一部であることを想像しながら次を待つ。 「意識を手に集中させて。音を忘れて」  うるさいセミも泣き叫ぶ子供も、次第に遠く離れてゆく。  今のあたしに残された音は、邪羅さんの声だけ。 「僕はこの手の先にいます。繋がっていることを忘れないで」  繋がっているのは、地球と邪羅さん。他にはない。 「ハートのところで、会いましょう」 「またあとで」  ふたり、重なった。  潮が引くようにざぁっと音が消えて行く。余韻が薄れたあとは沈黙だけが残った。それ以外は何も変わった気がしない。 「さすがです萱さん。文句をつけようがありません」  思いも寄らないほど遠くから話しかけられる。そう言えば、指先から邪羅さんの感触がない。  恐る恐る目を開けると、手を握り合う前までの光景と同じ風景が広がった。 「ここは、あなたの中です。僕たちはハートの中にいます」  穏やかな声に振り向く。邪羅さんは、十六夜が背もたれにしている木の幹を丁寧に撫でていた。 「成功したの?」 「これが証拠です」  邪羅さんは微動だにしない十六夜を示した。固い表情で眠っているようにしか見えないけれど、これってやっぱり。 「十六夜も動かないんだね」 「上手に僕だけを呼んでいただいたようです。だから、彼の時間は止まっている」 「やっぱり、そうなんだ。時間そのものが止まるんだね」  座ったまま周りを見渡した。木漏れ日でさえ刺すような強さだったのに、今では陽射しが柔らかい。何より、噴水で遊ぶ子供たちや見守るお母さんがマネキンのように停止している。 「幸いなことに、ハートでもその法則は同じようですね」  十六夜の顔をのぞき込みながら彼はそう、呟いた。手応えを確かめているのか、十六夜の髪に触れている。 「法則って?」  疑問に思って聞き返すと、邪羅さんは瞳をしばたたかせた。あごに手をやり眉をひそめる。 「前々から奇妙に思っていましたが、十六夜さんから僕たちやハートの話を聞いていないのですか?」 「あー」  ハートの話をはじめ、細かい説明は聞いていない。気持ちの準備ができた頃は、十六夜がこんな状態になったから、詳しいことを知らないまま時間ばかり過ぎた。  言葉に詰まり困っていると、邪羅さんは物音立てずに近寄って、あたしの正面に座りなおした。 「先日お伝えした、世界の成り立ちは覚えていますか?」  邪羅さんは考え込むように口元を塞ぎながら聞いた。 「物質・力と……何だっけ」 「思念、です」 「そうそう。それ」 「それらに時間という流れが加わって世界ができている」  頭の中にファミレスで説明に使ったグラスを思い浮かべる。確か、他の領域の影響を受ける、とか何とか。 「それがどうしたの?」 「この空間はそれらの内、力と思念だけで構成されています」  突拍子もない内容にあたしは想像することも返事もできなかった。その様子に気づいた彼は十六夜の側に再び近づき、身長より高い位置にある細い枝を指差す。 「例えば、この枝に僕がぶら下がったら折れると思いますか?」 「折れるでしょ。普通」  質問の意図がわからなかった。足の太さくらいある枝ならともかく、指のように細い枝だ。ぶら下がったら当然折れるだろうし、あたしの手でも簡単に折れそうだ。  邪羅さんはあたしの答えを聞いて満足そうに頷いたあと、その細い枝にジャンプして両手で掴む。 「え!? ちょっと!」  何してるの? と続けるはずだった言葉が、喉の奥に引っ込んだ。そして、あたしは目を疑うことになる。  なぜなら、邪羅さんの足が宙に浮いていたからだ。両手は細い枝をしっかりと握っている。  折れて、ない。 「どうなってるの?」  差し伸べようとした手を体に引き寄せ、自分の胸に押しあてた。 「時が止まるということは、物が動かないということです。したがって物は壊れることがないので、ぶら下がっても木の枝は折れない」  振り子のように体を揺らせて邪羅さんは解説する。 「おそらく、僕たちみたいなのが暴れても物が壊れないように仕組まれているんでしょうね」  そう言えばと思い出したのが、邪羅さんと待ち合わせていた時に襲われた光景。広場にいた買い物客は、怠惰の攻撃を受けたにも関わらずびくともしていなかった。  よくできているな、と感心すると同時に違う疑問が湧く。 「じゃあ、どうしてあたしたちは動けるの?」  物が動かないのなら、あたしたちは止まっていなければいけない。ハートの中にいるのがあたしと邪羅さんだけだったとしても、物の制約は生きているはず。  細い枝の上によじ上った邪羅さんは、頭に被さった木の葉を摘んでぶら下がる。時が止まっているとはいえ、奇妙な光景だ。 「今の僕たちは物じゃないんです。思念体……言わば魂だけだと思ってください。だからこうして」  彼の姿が消え、あたしの目の前にいきなり出現する。 「うわっ!」 「瞬間移動まがいのこともできるわけです」  びくりと体が奮え、座った体勢のまま思わず仰け反った。邪羅さんは妙に嬉しそうな笑みを浮かべる。 「物質は瞬間移動できません。僕が萱さんの前に現れた以上、今の僕は物でないと言い切れます」  腕をついて体を支えると、手の平に柔らかな雑草の感触がした。体を起こして手の平を見る。親指の付け根にちぎれた雑草がくっついていた。  物質の法則とか言われても、あたしには普通に見えるんだけどな。指で草を弾きながら、そんなことを思った。 「そういうもんだっていうのはわかった」  とりあえず理解できたのは、時間が止まっているから物が壊れないということと、ここで動けるのは同じ異空間を共有している魂だけということ。  脚や服についた草を払って立ち上がると、邪羅さんは難しい顔をして口元を覆った。あたしを伺うように視線を交錯させ、さらに十分な時間を置いてから固く結んだ口を開く。 「……僕たちについては何かご存知ですか?」  十六夜とあたしの現状を重んじてか、邪羅さんは遠慮がちに尋ねる。  僕たちについて。  怠惰が言った、人じゃないって話のことだろう。胸が音を立てて跳ねたけれど、あたしは構わずに首を振った。 「十六夜の能力くらいしか知らない」  彼は神妙な顔してさらに考え込み、 「知りたいですか?」  今度の口ぶりに遠慮はなかった。  さらにトクン、と胸が跳ねるけれど、思っていたより衝撃は小さかった。  理由は簡単。そう言われるんじゃないかと、薄々予感していたからだ。  邪羅さんの説明は、今までの事から考えるととても上手い。多分、抵抗することなく真実を聞くことができるし、すっきりと理解できると思う。  でも……あたしは……。 「知りたいよ。邪羅さんのことも、十六夜のことも、ハートのことも。だけど……」  邪羅さんと重ねていた視線を十六夜へ移した。草を踏みしめて彼に近寄り、かがんで顔を覗き込む。  彫りの深い顔立ちや通った鼻筋、厚みのある唇。髪の色や肌の白さも相まってか、日本人離れした綺麗な顔をしている。こんなに長時間、顔を直視するのはいつぶりだろう。十六夜の魂がここにあったら絶対にできないことだ。  あたしが良く知る表情は、今のように眉間に皺なんて寄っていなくて、苦しそうに目を閉じる表情でもない。体中で喜びを表現する、何とも締まりのない笑顔。周りの暗さなんて一瞬で弾け飛ばすような底抜けの笑顔だ。  あたしは彼の鼻をつついた。指先の小さな面積なのに、ちりちりとした痛みが手を覆う。喉の奥がきゅっと締まって、油断すれば涙が溢れそう。  触れた指をそっと口元に運んだ。唇に触れると、途端に瞳が潤んでくる。泣いてはいけない、と自分に訴えて両手をきつく握りしめた。  手の甲に食い込む爪が痛い。だけど、本当に痛いのは……苦しんでいるのはあたしじゃない――。 「あたしは十六夜から聞きたい。笑顔が戻った十六夜から聞きたい」  ずっとずっと考えていた決意を口にする。  確かに元に戻ってほしい気持ちは大きい。でも、邪羅さんから全てを聞いて近道するのは望んでいない。  あたしは十六夜自身から話を聞きたい。  今まで散々彼の優しさに甘えてきた。だから今度は、あたしが十六夜を受け止める番なんだ。  平静を保とうとする感情とは裏腹に、鼓動はどんどん加速する。断ってしまった後悔が渦巻くあたり、口にするまで自分でも迷っていたのだろう。もしかしたら邪羅さんに伝えることで十六夜から逃げるという道を断ちたかった可能性もある。  そんな自分が情けないけれど、お陰で腹はくくれた。再び立ち上がり邪羅さんをじっと見据える。  もう、後には引き返さない。 「邪羅さんごめんね。せっかく教えてくれようとしてるのに」  頭上で重なる葉が濃い影を落としていて、邪羅さんがどんな表情を浮かべているかは見えなかった。無風と無音に包まれ、自分の吐息が耳まで届いた時、彼の輪郭をかたどった影がゆらりと動く。 「ハートの主が萱さんで良かった」  心なしか、ほっとしたような穏やかな声が戻ってきた。 「もしハートの中へ来ることができなかったら、十六夜さんを使って無理にでもハートを発動させるつもりでした」  連れてくる必要もなかったですね、と言う邪羅さんへ苦笑いを返す。 「あたしも、こんなに上手くいくとは思わなかった」  周囲を見渡しながら、邪羅さんはあたしに近寄る。必然的に十六夜を囲む形となった。 「これだけ順調なら、本番も問題なさそうです」 「次はいよいよ、だね」  人形のような魁が脳裏に浮かぶ。  何度も殺されそうになったので、顔を想像すると同時に剣の切っ先も連想された。陽光を反射する切っ先はおぞましく、目の前に物がなくても恐怖心が徐々に迫り上がった。  それにもかかわらず、魁自身の姿は物寂く感じる。というか、ごく最近その背中を見た気がする。  記憶の点と点が結びつかないもどかしさと格闘していたら、邪羅さんはあごに手を当てがって呟いた。 「魁とコンタクトを取りたいところですが、ひとつだけ問題点があります」 「問題点?」 「僕には魁の居場所がわかりません。ですから萱さんの能力が頼りなんです」  十六夜が背もたれにしている樹に焦点を固定し、邪羅さんは考え込む。  あたしの能力というのは、ファミレスでも話していた魁を感知する力のことだろう。 「今は近くにいないみたい」 「困りましたね」  第五感でもそうだし、視覚でもそうだ。邪羅さん以外は全て静止している。噴水の影や空にさえ、魁の存在は確認できない。  ……影?  胸の奥で、影という言葉が引っかかった。先程の物寂しい背中にも通じる既視感。  ふたつのキーワードを元に、これだと思う出来事を必死に握ろうとするけれど、今一歩のところで指の隙間から滑り落ちる。 「影……背中……」 「どうかしました?」  頭を抱えるあたしに、邪羅さんが肩越しに声をかける。あたしが脳内で格闘している間に、彼はあたしに背を向けていたらしい。  だけど、これが幸いした。  もやがかっていたある記憶が、鮮やかな色を伴って邪羅さんの背中へ被さる。あたしは十六夜と喧嘩したという事実が重大過ぎて、あの一瞬の出来事が見事にすり抜けていた。  何でそんな大事なことを気に留めなかったの……!  邪羅さんが言った『十六夜の変貌は魁が原因』というも、あの出来事と繋がれば辻褄が合う。 「何とかなるかもしれない!」  慌てて邪羅さんに駆け寄り、乱暴に肩を掴んだ。 「魁の居場所はわからないけど……何とかなるかも。やっぱり邪羅さん正解だったよ」 「何がです?」 「十六夜を連れてきてくれたこと。あたし見たんだ。十六夜と喧嘩してハートが発動した時にね、去っていく十六夜に魁が重なってた」  ――そう。あたしはふたりの姿がダブって見えた。  無意識に、邪羅さんの肩を力一杯握りしめていた。  急いで手を放しても落ち着く訳もなく、ごめんと謝罪しても期待と不安が胸をかき乱すばかり。  だけど、細い糸のように今にも千切れそうだった期待が、質感を帯びていく手応えがあった。 「落ち着いてください」  肩を掴み返してきた邪羅さんは、冷静に話を進め出す。 「こじつけのような気もしますが、無視はできません」 「ねぇ、どうしてだと思う? あたしがそれを見た理由」 「とおっしゃいますと?」 「例えば、操られてる……とか」  ありきたりだけれど、魁に操られているのなら十六夜の暗さを説明できる気がする。  僅かに見えてきた明るい道。一直線に駆け抜けようとしたけれど、短い時間で答えを出した邪羅さんがあたしにストップをかける。 「その可能性も考えられますが、それにしては行動が不可解です。ハートを狙う素振りがないのなら、魁の行動と一致しません」 「そっか」  良い線行ってると思ったのに。掴まれたままの肩を落とすと、邪羅さんはポンポン、と軽く叩いた。 「しかし、魁を見たというのは大きな収穫です。あちらに戻ってから調べてみましょう」 「うん、そうだね」  ふたり同時に頷いた。  何とかなるかも、と思ったのは、十六夜と魁が繋がっている可能性を考えてのことだ。魁の居場所はわからなくても、十六夜と繋がっているのであれば、魁とコンタクトを取れるかもしれない。 「念のため確認しますが、ここにくる時に僕としたことと同じ手順を行なっていただきますからね」 「手順?」  邪羅さんはあたしの肩から手を離して、目の前でひらひらと動かした。手と彼の瞳を交互に見比べると、唐突に邪羅さんの声が蘇る。 『この感触をしっかり覚えてください。これがあなたの道しるべとなりますから』  そうだった……十六夜の手を握らなきゃいけないんだった。口の中が乾いていくのを感じて、崩れるように座りこんだ。  気が重い。重すぎる。 「今更嫌とは言わせませんけど」  軽い口調と笑い声が頭の上から降り注ぐ。 「言わなきゃ良かった」  せめてもの抵抗、ということで座ったまま睨んでみたけれど、砂粒より小さいあたしの眼力なんて邪羅さんが堪えるはずがない。 「言わなかったらいつまでもこのままですよ」  あたしの本心を見透かしているに違いない。彼の笑顔がそれを物語っている。はぁ、とひとつ溜め息をついて、勢い良く立ち上がった。  そして、砂粒よりは大きな目力であって欲しいと願い、短く簡潔に気持ちを言う。 「ヤダ」 「素直でよろしい」  予想通り、と顔に書いている彼の手を取り、蝉が騒がしく鳴く炎天下へと戻った。  時間にすると一秒にさえ計上できない出来事。景色は何ひとつ変わらないのにハートの中へ旅行した気分で、蒸したような熱気を懐かく感じた。  戻って早々、邪羅さんは魁に接触できるかもしれない、と十六夜に報告した。その方法と要因を無言で聞き続けた十六夜は、眉間の皺をさらに深くさせて機嫌の悪さを匂わせる。  邪羅さんはひと通り話し終えると、若干距離を置いて座るあたしに視線を投げてきた。十六夜に念を押せ、と目配せで言う。 「十六夜、あの……」  重い空気に耐えきれずに名前を呼んだけれど、声が続かない。体が地面に絡みつかれているかのように動かず、あたしは十六夜を見つめるだけだった。  この場から逃げられたらどれだけ良いだろう。だけど、後戻りはしないって決めたから。 「魁に会いたい。だから、協力して」  絞り出したのは短い言葉。  十六夜は傍観者でいたいのだから、あたしと邪羅さんの意志は彼の姿勢に反している。さらに、十六夜を元に戻すことと彼自身が請け負っている仕事は、直接的に無関係だ。十六夜が首を振ったら、そこでアウト。 「お願い」  断られる可能性を考えた上で伝える。  魁が原因だとしたら、これは本当の十六夜じゃない。きっと苦しんでいるはずだ。  あたしは十六夜を助けられるだろうか。自分に疑問を投げかけるけれど、即座に違うな、と改める。  助かって、ほしい。 「……お願い」  目をまっすぐ見て、重ねて伝える。  厚い沈黙は、風に流れることなく留まった。太陽が雲に隠れたらしく、影と日向のコントラストが弱まる。活気がまるで見えない十六夜の視線が微かに陰った。  負けるものか、と持久戦を覚悟した瞬間、固く閉じられた十六夜の唇が開き小さな吐息を漏らす。そして、組んでいた腕を広げ、渋々手を差し出してきた。  その姿に、見守っていた邪羅さんも胸を撫で下ろす。  ……良かった。とりあえずは、受け入れてくれた。  十六夜の前を陣取っていた邪羅さんがあたしを手招きした。四つん這いのまま近寄り、立ち退いた邪羅さんに変わって十六夜の目の前で正座する。  神様、仏様、ハート様。どうか……どうか糸口が見つかりますように。  自分の緊張をほぐすように祈りを捧げてから、手をゆっくりと寄せていった。  指先が十六夜の手にふわりと触れる。ハートの中で触れた時と同じ柔らかさなのに、温かみが違う。息づかいが聞こえる。  本人さえ意識していないだろう、十六夜自身の存在感があたしの心臓を鷲掴みにして、咄嗟に指を離してしまった。伴う痺れはハート内に感じたものと比較にならないほど強く、涙をこらえることができなかった。  直後、真夏の熱風がふたりの間をすり抜ける。樹々のざわめきと共に、髪があたしの顔を隠した。風が味方してくれた、そう感じて涙を拭う。  大丈夫、と誰にも聞こえない程度に呟き、改めて十六夜の手を取った。何があっても決して離さない……離したくない。  邪羅さんとは違う、骨ばった感触を頭に叩き込みながら瞳を閉じた。息を限りなく押さえ、胸に全神経を集中。心臓のリズムと呼吸が合うよう調整する。タイミングの違いを少しずつ整え、ぴたりと合わせた時だった。  一定間隔で震える胸に、時折雑音が混じっているのに気づいた。戦闘の時に比べると弱々しいけれど、これは間違いなく。 「邪羅さん、魁のノイズわかったよ。十六夜と魁は繋がってるみたい」  確信を持って言った。  共鳴するノイズは鼓動の隙間に刻みこむ。ノイズに注意を向けていると、何故か自分がどこにいるのかわからなくなった。  魁と接触できた……の?  不思議な感覚を覚えて薄目を開けると、しっかり繋がった手があった。それを確認すると、セミの音が耳に届く。  違う。まだ魁と接触できていない。  再び風が髪を弄ぶ。肌に張りついたので、髪をかきあげるために手の力を抜いたけれど。彼の力は弱まるどころか強まっていく。  ……十六夜?  痛みさえ感じる手の圧力を不審に思い、腕をたどって視線を合わせた。その瞬間。  心臓だけが、揺れた。  茶色い目は本物の十六夜だ。  でも、質が違う。これは……。 「――いる」  魁だ。魁がいる。  邪羅さんの戸惑う声が背後から聞こえた気がした。気がするだけ。ここまで届かない。  そして、あたしの中から音が消えた。肩を掴まれても肌の感触まで消えていく。  暑さも光も徐々に薄らぎ、目につく色という色まで剥がれ落ちた。濃い葉も土も灰色。十六夜の瞳も彩度が落ちる。 「あたし……」  瞳孔の中心から目が離せない。目の奥にいる人物に引き込まれる。引きずられる。  さきほどのハートの時と異なる状況に、頭が警笛をけたたましく鳴らす。だけど、行かなきゃいけない衝動に駆られた。  ――行くしかない。 「行ってくる……ね」  邪羅さんたちには伝わったかな。  多分、伝わっただろうという根拠のない安心と共に、あたしの意識は滑り落ちた。  気だるい。頭が朦朧としている。  どうしてこんなに体が重いのだろう。直前の記憶を手探りで探っていた矢先、自分の体が横たわっているのに気がついた。それだけでなく、ぷかりぷかりと揺れている。まるで海に浮かんでいるみたい。  あたしは閉じたままだったまぶたを開き、そして、数度瞬きをする。 「……」  何が起こった……?  視界いっぱいに広がる光景をしばらく認識できなかった。もう一度目を閉じて、また開く。  何も変わらない。  戦いの場面は時間が止まるという、現実と少し理屈が違うだけの景色。あくまであたしが把握している範囲の話だった。ここは、あたしの想像を超えすぎている――。  言うならば白。  雪景色も雲海も比べ物にならない、濃淡ひとつない純白の世界。  そう表現しても稚拙だと思ってしまうのは、白しか見えないからだろうか。色を加えても染まる事さえ許さないような、圧縮された極彩色。  どこ、ここ。  地上とかけ離れた様相の中、顔を横に傾けると投げ出された自分の腕が見えた。さらに、指先の奥……とても遠いところに水平線があった。  いや、正直に言うと濃淡がないから遠いのか近いのかもよくわからない。水平線と表現して良いのかもわからないけど。  理由は簡単。あたしの寝ている海は真っ黒だったから。  黒い海に白い空。  両極端なモノトーンの配色しかない場所で、自分の腕はしっかり色がついてることに、安堵する。  好奇心にかられ、腕を海に沈めてみようとしたけれど、想像以上に固くて入らなかった。海よりゼリーに近いのかもしれない。  頼りない大地に手をついて、よろめきながらも何とか上体を起こす。 「うわぁ」  終わらない白と黒。呆気にとられるというより、圧倒されてしまう。  交わることなく二色が真横に分断されていて。  前も。右も。左も。  ぐるりと一回転して見渡したけれど、余分なものは一切なかった。  立体感のない世界。自分の存在自体が変だと、そんな囁きが聞こえてきそう。  ここが……魁の中だと言うの……?  口に出さず、一瞬だけ思考を巡らせた。だけど。 「そうだ」  すぐ側で音がした。過去一度しか会ったことのない男の人の声。 「魁?」  肩越しに振り返る。誰もいない。  あごを上げて空を仰ぐと、当然のように無色でだたっぴろい空があるだけだった。  そもそも、物の形なんてどこにも見受けられない。そんな場所で、ふと視線を落とす。  体を支えている手の先……透き通った黒いゼリーの中で、あたしのとは違う腕が向こう側に伸びていた。  ……まさか。  恐る恐る自分の手をどかすと、真下に手の平が見えた。 「わっ!」  何これ!?  驚いて咄嗟に飛び退こうとしたけれど、こうも柔らかいと簡単に立てるはずもない。見事にバランスを崩して尻餅をついてしまった。  弾力があるからか、体が少し跳ねる。そして、痛くない。  散々感触を確かめたゼリーを、手の平でひと撫でしたあと、ゆっくり、ゆっくりと手の平を覗き込む。  魁。  信じられないことに、ゼリーの中で水平に埋まっていた。  黒いと思い込んでいたゼリーは透明度が高く、改めて眺めてみると腕以外の輪郭もはっきり見えた。綺麗な黒髪も健在だったけど、海に混ざってわかりにくい。色のついたガラス越しに対面しているようで、肌の白さが不気味に感じるほど浮いて見えた。 「ここは魁の世界なの?」  鏡合わせの体勢で、問いかける。 「これが全てだ」  抑揚のない平坦な声が脳内に直接響く。  ゼリー越しなので表情がよく読み取れないけど、口が動いている様子は見られない。そう言えば、さっきも少し考えただけで音がした。  そこから考えると、この声って。 「直接語りかけている」  回答が返ってきた。  イヤホンを通したように声が耳の中に直結している。遠くでしか聞いたことのなかった魁の声が誰よりも近い位置にいて、少し居心地が悪い。  そして、魁と対峙した時には必ずハートの鼓動を感じたのに、今は無反応。これほどそばに寄ったのは初めてなのに、何故動かない?  多少なりとも違和感を覚えたけど、本来の目的から反れていることを思い出す。騒がしい気持ちに目を背け、真面目に見たことがなかった瞳を直視した。 「魁……一体、十六夜に何したの」  彼に届いているはずの声は、黒い海に吸い込まれるだけ。重なり合っている手の先は、沈黙したまま動かない。 「ねぇ答えて。十六夜に何が起きてるの?」  些細なことでもいい。今の十六夜を知る手がかりを得ないと、あたし帰れない。指先に力がこもり爪は真っ白になった。  ……魁は十六夜を刺した。元々はあたしを、ハートを手に入れようとして出た行動だった。  あたしを狙っている。敵と呼んでも違和感さえ起きない人が、はたして自分の問いに答えてくれるのだろうか。  今更ながら、自問自答していた。魁に引き寄せられるまま、この世界に飛び込んできたものの、彼に回答する義務はない。無駄足――そんな可能性が脳裏をよぎった瞬間、魁は無表情のままあたしの意識に混ざり込んできた。 「自分の目で、何が起きているのか見たんじゃないのか」 「見たから聞いてるんでしょ」  自分の顔が漆黒の境界線に映り込む。ひと目で焦っていると理解できる、歪んだ表情。  そんなあたしへ、 「では何故だ。何故アレはアイツじゃないと言う」  魁は問う。 「何、それ」  思わず聞き返したところで、寒気がした。  邪羅さんから提示されたヒントを元にしてここまで来たのに、ふりだしに戻らなければならないの?  首を強く振ると、不釣り合いな香りが散った。 「あたしは……」  続きそうだったのは言い訳の言葉。後戻りしないと決めた直後なのに、希望が断たれそうになると逃避の道を選びたくなる。  いったん魁から目を背け、ただ遠くで線引きされている彼方を視線を投げた。手を差し伸べると凹凸さえ感じそうな、くっきりとした境界線。  ここに曖昧さなんて存在しない。白か黒か。ゼロかイチか。無か有か。  曖昧なのは、自分だけ。あたしは唇を噛み締め、必死に魁を見つめた。 「あなたの作った錐に刺されてから、十六夜は変わった。だったら」 「それがきっかけだったとしても、オマエはアレを否定するのか? 必要ないのか?」  首を傾げたあたしが映った。  原因は魁にある。魁自身から遠回しに証明されたけど、それよりも十六夜自身の変化について、妙に気にかけている。 「何が言いたいの?」  ……必要ない? 十六夜が必要ないのなら、あたしはここに来ていない。  魁が口にした理由を考えてみたけれど、わからなかった。魁とあたしが見ていること、考えている何かが明らかに食い違っている。  それを決定づけるように、魁はさらに叩き込んでくる。 「オマエの思うアレがアイツでないなら、そんなのはアイツではない、とでも言うのか?」  魁は聞く耳を持たないのか、悲し気に顔を歪めて続ける。 「嫉妬や嫌悪で覆われたアイツはいらないと……そういうことか?」 「そんなわけないでしょ」  咄嗟に否定した。否定せずにはいられなかった。 「だって十六夜は……十六夜は」  弱々しい反論を口にしようとしたけれど、口を噤んでしまう。  そんなわけない。数秒前のセリフが信憑性に欠けることを、自分自身がよくわかっていた。  魁の言うことが真実なら、結局、十六夜はあたしに対して腹を立てているのだろう。魁の攻撃は、ただのきっかけでしかない。もっと根本的な原因はあたしにある。  つまり喧嘩した時、十六夜が発した言葉は嘘ってことだ。『普通の人間だから、現実を否定する権利がある』……そんなこと、これっぽっちも思ってないのだろう。あたしはそれを、見抜けなかった。  ただただ動揺するあたしへ、魁はさらに突き落としにかかる。 「――オレにアイツは戻せない」  前後の会話とのつながりがない。だからこそ余計に衝撃が増し、胸に重くのしかかる。 「嘘でしょ」  最悪な現実を間の当たりにして、全身が小刻みに震えていた。背中に変な汗が伝う。  そんなことってあっていいの? 「冗談言わないで」 「オレには戻せない」 「じゃあ、誰なら戻せるのよ」  怠惰? 邪羅さん? 一体誰を連れてきたら十六夜に笑顔が戻るの? 苛立ちを隠せないままそこまで考えて、はたと気づく。  あたし、今の十六夜を否定してる。  ぐるぐると同じ考えが頭を通過する。進めば壁にぶつかり、壁を避ければ振り出しに戻る。 「……十六夜」  名前を呼ぶだけなのに胸が痛い。自らに罰を与えるように、何度も何度も十六夜の名を口にした。口にする度に、苦みが胸の奥に溜まった。 「いざ……」  とうとう名前さえ続けられなくなった時。溜まった苦みは、ひとつの素直な感情を沸き起こした。  ――会いたい。  思いが止まらなかった。全身を走る衝動に身を委ねたかった。だけど、冷たい氷のような魁の声が響く。 「あとは、自分で考えろ」  魁のセリフが、やけに鮮明に聞こえた。それは脳に直接響いてるからという理由でなく、あたしの中の誰かが、魁の言葉を受け止めているような、そんな自然さ。  ハート……? ここに来てざわつきさえ感じなかったハート。それが魁を受け止めているんじゃないかと思う。  ふと、疑問が沸いた。 「ねぇ、どうしてハートが欲しいの?」  遠い水平線が、揺れた気がした。魁はただ無表情で、でも瞳の奥に沈んだ何かを見せつけて、言う。 「ただハートが欲しいだけだ」 「ハートを手に入れてどうするの?」  答えはすぐに返らなかった。答えようとする様子は見て取れる。口を開き、少し閉じる。そして、ほんの僅かな微笑みを視線に乗せると、 「ひとつに戻る」  瞳を閉じて、しっかりとそう呟いた。  何を聞いたのか。我に返るまでに数秒を要した。 「も、ど、る?」  いちいち言葉を区切って魁を伺う。それほどまでに衝撃だった。 「それって……まさか」  血の気が引く。  会ったことある気がしたのも。あたしだけノイズがわかるのも。  そこから出てくる答えなんて。たった――ひとつで。  真実を求めようとした時、 魁の輪郭が一気に溶け出した。ゼリーの黒さが薄まっていく。 「待って……」  魁の中から、切り離されようとしている?  首をぐるりと一周させると、あんなにくっきりしていた水平線までもがぼんやりと朧げになっていて。  改めて魁に向き直り、ゼリーを力任せに叩く。だけど、重なった手は既に遠く離れていた。 「待って! 魁!」  ハートは魁を覚えていた。  ハートが震えて泣いていた。  魁。  ねぇ、あなたもあたしと同じ『ハート』なの?  ……あたしの声は届くことなく、意識は再び暗転した。  何か柔らかいものに包まれていた。ざらりとした肌触りが心地よくて、あたしはそれを抱き寄せる。寝転がった足元から、蒸した風が肌を撫でて行った。汗ばんでいるので風を心地よく感じたけれど、違和感を覚えた。  暑い?  慌てて目を開けると視線の先に白が広がった。ただし、目を凝らさなくても純粋な白じゃないことがわかる。アイボリー色の天井だ。  ……普通の世界に戻ってきたんだ。  仰向けになったままそう認識すると、雑音が津波のように押し寄せてきた。騒がしい蝉に遠い場所で鳴る車のクラクション。  ゆっくりと意識が目覚めて行く。ぼやけた視界が晴れて、部屋の電気と壁にかけられた時計が目に入る。  知らない天井だった。 「どこ? ここ?」  タオルケットを抱いたまま、体を静かに起こして辺りを見渡した。  家具らしい家具は自分が寝ているベッドとガラス製の四角いテーブルだけで、他に何もない。  ベランダの扉が開けられているらしく、カーテンが風に揺らいでいた。ふわりと波打ち、床に直接山積みされた教科書に引っ掛かっている。その隣には、口が開いたまま放置されている学校の指定カバン。壁を伝って視線を這わせると、サイズの大きいうちの制服が目についた。  全体的にがらんとした寂しい印象を受ける部屋。魁の中に入る前と今の状況から考えると、誰の部屋にいるのかすぐにわかった。  あたしはベッドから下りて、雑多に積まれた教科書へ近寄る。一冊手に取って裏返すと、癖のある字で大きく名前が書かれていた。  ――蘇芳十六夜。 「十六夜の部屋だ」  指先で名前をそっとなぞると、不意に今までと状況が違うことに気がついた。 「どうしてあたし、ここにいるの? 時間は止まるはずじゃ」  邪羅さんとの修行を含めると、計四回、時が止まる空間を経験した。空間に隔離される前と後は、自分は必ず同じ場所にいる。あの空間でどれだけ遠い場所に動いても、元の世界に戻ったら体は全く動いていない……それがルールであり法則だった。  今回は違う。直前まで公園にいたのに、今は十六夜の部屋にいる。  何でだろう。  あたしはベランダと反対側にある扉の前に忍び寄った。閉じられた扉に頬をあてて聞き耳を立てる。人の気配はしない。  物音を立てないよう細心の注意を払って、扉を数センチ引く。小さなキッチンが目に入った。 「キッチン?」  もう少し隙間を広げると、金属の扉と靴が並ぶ床が見えた。玄関だった。 「え?」  扉を開けきって広がる光景。 「ワンルーム……だよね、これって」  玄関と部屋の間の壁に、トイレに続いているだろう扉がひとつある。背中側にはベランダしかないので、どう考えたってワンルームの間取り。  十六夜ってひとり暮らし?  唖然とした。高校生なのにひとり暮らしって……どういうこと。  ぼんやりと部屋中を観察していると、玄関の鍵ががちゃりと音を立てた。反射的に体が強ばる。 「起きたのか」  生温い風と一緒に入ってきたのは、会いたいと願った彼――十六夜の姿。コンビニ袋を下げ、気だるそうにこちらを見ている。  今の自分にできる精一杯の笑顔を浮かべて、こくりと頷いた。 「ここは……十六夜の家?」 「ああ」  玄関に振り返って呟かれる、短い言葉。体がちくん、と痛んだ。 「連れてきてくれたの?」 「気を失ったようだからな」  サンダルを無造作に脱いだ彼は、鬱陶しそうに髪をかき上げる。 「そうだったんだ」 「背負って連れて帰るだけで、すれ違う人に不思議な目で見られた」 「そっか。ごめんね」  ほんの数週間前まで交わしていた何気ない会話。十六夜がここに連れてきてくれたことよりも、普通の会話ができることが凄く嬉しかった。  視線はいまだに尖っているけれど、それでも嬉しかった。 「座って。これ飲んで」  十六夜は部屋に入るなり、コンビニ袋からペットボトルを取り出してあたしに手渡す。 「あ。うん。ありがとう」  青いラベルのスポーツ飲料が、熱い手のひらに心地よい。握りしめたまま十六夜の顔を眺めると、左の頬がほんのり赤かった。 「それ、どうしたの?」  暗い廊下にいた時は気づかなかった。あたしが頬を指差して尋ねると、十六夜は頬に手をあてがう。 「邪羅に殴られた。責任持って君を介抱しろって言い残して……帰った」  十六夜はコンビニ袋から炭酸飲料を取り出す。キャップを開けると、あたしのところまで甘い香りが漂ってきた。  甘いものを口にする姿を、今まで何度見ただろう。普通、喉が乾いたら水やお茶が恋しくなるのに、彼はいつだって甘いものを選んでいた。  朝だってそう。あたしだったら避けるような生クリームたっぷりのパンを好んで食べていた。今も顔色ひとつ変えずに、こちらが飲みたくなりそうなほど、勢い良く炭酸を流し込んでいる。  昔の姿と何ひとつ変わらない姿を目の当たりにすると、何だか無性に……。 「……ぶはっ」  おかしくなってきた。堪えきれずに、ついつい吹き出してしまう。 「何を笑っている」  きっと苛立っているんだろう。声が微かにひきつっている。  それを理解しながら、あまりのおかしさにお腹を抱えて笑ってしまった。  ――魁の言う通りだ。十六夜だ。十六夜なんだ。  性格や言動は全然違うのに、甘いものが好きという共通点は十六夜のまま。  この十六夜は十六夜じゃないと否定していたのは、一体誰なんだ。自分をそう責めてやりたいほど、たった今、本人以外の何者でもないと納得させられてしまった。  しばらく笑い続け、ようやく落ち着いた時、十六夜は背を向けて床に座り込んだ。 「ごめんごめん」  目下で丸まる背中からは、何の反応もない。少し笑いすぎたかな、と苦笑いをひとつ浮かべて、あたしは腰を落とした。  ……この背中に散々甘えた。自分の器の小ささを棚に上げて、散々責めた。  十六夜、本当にごめんね。たくさん傷つけたよね。  あたしの手が自然と背中に伸びた。  十六夜の震えが温もりと共に伝わってきたけれど、構っていられなかった。溢れる想いを押しとどめることができず、触れた手を胸に滑らせて背中から抱きついた。  鼻をつく汗の香り。顔をくすぐる長い髪の毛。大きい背中。  呼吸も。鼓動も。  彼の全部を包めたら……そう感じた。  薄い服越しに、十六夜の感触が全身に染み込んできた。温かなその熱にのぼせてしまいそう。  浮かされないように力を込めて抱きつくと、頭に浮かんできたのは愚かな自分。そして、ずっとずっと思ってきたのに伝えてこなかった気持ち。 「ありがとう。十六夜」  感謝しか、出てこない。  大事にしてくれた、あたしを。  大切にしてくれた、ハートを。  あたしとハートなら、きっと彼の苦痛を背負える。十六夜自身を躊躇う理由なんか、どこにもないんだ。 「ありがとう……十六夜」  何度だって、繰り返して言える。  何度言ったって、この気持ちを伝えきるには到底足りない。 「俺が君の側にいるのは仕事のためだ。感謝しなくていい」 「わかってる」  そんなことはわかっている。  でも、はじめから否定し続けたあたしを優しく受け止めてくれたのは、他の誰かじゃない。  仕事のためだけなら、そんなの無視して全部説明すれば良かったのに、十六夜は頑なにあたしを庇った。優しく見守ってくれた。 「離してくれないか」  あたしの手首に十六夜の手が遠慮がちに触れた。抱きつく力をさらに強めて、彼の背中におでこを擦りつけながら大きく首を振る。 「離してくれ……」 「嫌だ!」  あたしの手をほどきにきた十六夜へ、最大限の抵抗を見せる。  触れていたいと、素直に思ったから。足りない言葉を補うには、こんな方法しか知らなかったから。  ずっと間違えたまま歩いてきた。仕出かした間違いは修正できないけど、これからの十六夜にしがみつくことなら、自分にだってできる。 「離せ! 頼む……頼むから」  懇願する声と一緒に彼の背中が震え出す。押し殺すような涙声が耳に届いてきた。驚きのあまり顔を上げると、俯いた後ろ髪の揺れに気づいた。 「十六夜?」  半ば無意識に名前を呟く。震える肩は次第に大きくなり、いつしか手首を握りしめている手は離れていた。 「……君と同じ時間を過ごすたびに、俺とは違うものを感じていった」  離れた手は十六夜の顔を覆う。指の隙間から、苛立ちや怒りとは異なる暗い感情が溢れ落ちた。 「生きているということ。人間だということ。同じように感情を持つ者でも、その実態はまるで違う。俺とは……全然違う」  あたしは抱きしめていた腕を静かにほどき、後頭部から彼の顔ごと腕をまわした。むき出しの素肌に彼の涙がどんどん染みていく。 「近づきたいと……知りたいと思うほど、俺との距離を感じた。その気持ちは魁に襲われたあの日を境に、爆発するように増えた」  十六夜の細い声は、なおも続く。 「俺は人間じゃないと知った君が、俺をどんな風に見ているか。それを知るのがとても怖くて」  それは、溜まった感情をただ流していくように吐き出される。 「自分という存在も、ここに来るときに作ったこの体も、全てが気持ち悪くなっていった」  声に出せば出すほど自分を痛めつけてしまいそうな、言葉の羅列で。 「触るだけで汚してしまうんじゃないかと、そう感じた」  次から次へと留まることなくあふれて、止まらない。 「そのうち仕事なんてどうでもよくなった。君を普通の高校生に戻すということは、俺は叡智に戻らなければならないということ」  あたしは天井を仰ぐ。頬を滑る冷たい涙が、十六夜の髪を濡らしそうになったから。 「自分が憎くなった。忌々しかった。俺が人間だったらどれだけ良かったか……『蘇芳十六夜』は本物じゃない。俺はどうやったって『蘇芳十六夜』という人間にはなれない!」  濡れた手であたしの腕を振りほどいて、ぐしゃぐしゃになっているだろう顔は俯いたまま、あたしに向き直って体を離す。 「俺は十六夜が羨ましい。十六夜になりたいよ。本当に……本当に」  こんなに暑いのに、寒そうに自分を抱く十六夜。痛々しいその姿は、あたしに触るなと訴える。拒んでくる。  だけど、あたしはそれを無視した。十六夜がはじめて見せた暗い本音ごと、彼の顔を両手で包み込む。  十六夜の手よりひと回りも小さなあたしの手。彼を支えるには何が足りないんだろうと思ったけれど、そんなのは問題じゃなかった。 「あたしはあなたがいい」  簡単な話。探した答えはこの手の中にある。 「あなただったから、ここまで来れた」  十六夜のあごが上を向く。互いの瞳が間近で交錯した。 「あなたじゃなきゃだめだった」  十六夜にとって一番近い人間はあたしで、あたしにとって十六夜は日常の一部になった。どちらも互いが求めあっていたもの。 「十六夜じゃなきゃだめだったの。人間だとか人間じゃないとか、どうでもいい。あたしは……あなたがいい」   十六夜の気持ちに行き場がないというのなら、ここに作る。そんな気持ちを込めて断言した。  驚きを宿した瞳があたしを捕らえる。泣きはらしていて随分赤い。親指で滴る雫を拭った。  そして、何に突き動かされたのか、よくわからないんだけど。  自分の顔を彼に寄せ、そのまま唇を重ねた。  そのことに気づいたのは、唇が触れてから数秒後。不意に瞳を開いた時だった。  ぶつかりそうなほど近くにある瞳は、大きく開いている。瞳孔どころか瞳の模様までもが透き通って見える。充血した瞳をふち取る睫毛が二、三度瞬くのを、ひたすら眺めていた。  ベランダのドアから風が吹き込んだらしい。十六夜の髪がふわりと舞い、あたしの頬を撫でて行く。毛先が肌に触れた瞬間、今どんな状況に立たされているのか、自分が何をしたのか……少しずつ認識しはじめた。  体が一気に灼熱に包まれる。大慌てで身を離して後ずさりした。ベッドマットが背中に当たり、背骨に痛みが走る。  ……何が起こった……? あたし……?  両手で自分の口元を塞ぐ。こもる息が熱い。  指先が唇に触れると、自分の指じゃない柔らかな感触がせり上がるように思い起こされた。それでようやく、全てを理解する。  キスした……あたし、十六夜に……?  理解して、でも、理解できなくて。  出来心にしては意味不明過ぎた。だけど、唇に残るリアルな感触は、現実に起こった出来事だと押しつける。  ゆっくりと体に浸透していく時間は、あたしから落ち着きをどんどん持ち去った。何か言えるわけでもなく、かといってじっともしていられない。首を振る、頬を叩く、耳を引っ張る。どうにかして自分を保とうとしたのに、羞恥心は増すばかり。十六夜も挙動不審なあたしが不思議なのか、戸惑っているように感じる。  前触れなくキスされたのだから、面食らって当然だ。自分だけで納得すると、さらに顔から火が出るのがわかった。恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆って俯く。  見ないで欲しい。そんな願いを抱えたけれど期待は裏切られた。床がギシリと鳴ると、人の動く気配がした。加速するばかりの心拍数を苦しいと感じた直後に、真近くで音が止む。近づいた十六夜はあたしの手首を思いきり掴み、顔から無理に引きはがした。 「ちょっと」  何をするのと抗議しようとしたら、十六夜は手首を拘束したまま唇を奪う。ひたすら固まるあたしは、唇の甘さを感じたまま十六夜の閉じたまぶたを茫然と見つめていた。  どれだけ時間が過ぎただろう。流れた時間が短いのか長いのかも把握できない精神状態で呆けていると、唇と手首が突然解放された。そして、再び俯いたあたしの頬を両手で包んで、顔を上に向けさせられる。 「いざ……」  名前を呼ぶ隙すらないまま、またも口づける。  触れては離れ、呼吸を整えたらもう一度重ねる。何度も何度も繰り返し、互いの熱が混ざり合った。体の感覚全てが唇一点の感触に支配され、頬に添えられた手の温もりでさえ曖昧になる。  意識までぼんやりしてきたところで、降り注ぐキスが止まった。定まらない視線を十六夜にあわせようとすると、ぎゅうっと強く抱き締められる。  そして、耳元に口を寄せ、 「――ただいま。萱」  しっかりした口調で、そう言った。 「え……?」  あたしはその言葉をすぐに掴むことができなかった。でも、体はその言葉の意味を理解したように小刻みに震え出す。  十六夜は背中にまわした手を肩に置きなおし、静かに体を離す。狼狽えるあたしと視線を交わらせると、思い出と同じ優しい笑顔を浮かべた。 「ただいま」  こつん、と痛くない程度に額を合わせ、甘ったるい低音で同じセリフを囁いた。  ただいまの意味。繰り返して口にした、意味。 「十六夜?」  麻痺した口から名前が滑る。舌に馴染んだ、大切な名前。  頭が全然働かないのに、自分の手は十六夜の存在を求めるように勝手に動いた。十六夜は浮いたあたしの手を掴み、しっかりと握り返す。  戻った……の? 「ありがとう、萱」  見るだけで溶けそうな笑顔を見せ、丁寧に頬を撫でて行くから……あたしの何かが壊れた。 「……う……」  ギリギリまで張りつめていた糸が引きちぎれ、大粒の涙が流れた。次から次へと溢れ、次第にはしゃくりあげる。ただただ感情に身を任せて、泣いた。  嬉しくて、とにかく嬉しくて。  ごめん。十六夜。あたしやっぱりそっちがいい。笑った十六夜がいい。  どんな十六夜でも十六夜だって言える自信あるけど、そっちの十六夜がいいよ……。 「ご、ごめん! 泣かせるつもりはなかったんだけど、いや、今までの俺の行動考えれば泣くのは仕方ないことで!」  あたしの泣きじゃくった声と一緒に、狼狽える声が聞こえてくる。しばらくの沈黙のあと、そっと背中に手をまわして抱き締めてきた。 「だめだ俺、どこまで情けないんだ。全部俺のせいなのに……萱ごめんな」  子供をなだめるかのように、丁寧に頭を撫でていく。三度目のただいまが頭の上から届く。  ――そうして、あたしがようやく「おかえり」と伝えられたのは、十六夜の胸に体を預けてから十分後のことだった。 NekoProject =============================================================== Name *** くろネコ *** URL *** http://nekoproject.net/ *** Mail *** nekonekoproject@gmail.com *** =============================================================== 感想お待ちしております。